2020年7月14日火曜日

許さないということ

一番は『寛容』になることだと思います。怒りとかストレスとか、ハラスメントが一日中ついて回るような今の世の中のキーワードは『許さない』ことだと思うんですよ。例えば国会議員が不倫してようが全然関係ないはずだけど、『不倫はいけない、許さない』とかいろんなものを許さない、許さない・・・って、どんどんシャープになってきて幅がきかなくなってきて、どんどん狭くなってきた価値観同士がぶつかり合うと、もう多勢に無勢で。『共存する世の中』『多様性』って口では言うけど、共存なんか全然できていないですよね。(大崎志朗)
 --- 宮台真司 永田夏来 かがりはるき 「音楽が聴けなくなる日」

アートと娯楽

アート(音楽を含む)は娯楽と違い「人の心に傷をつける」のを目的とします。娯楽の目的がリクリエーション(回復)、即ちシャワーを浴びて日常に戻ることにあるとすれば、アートの目的は、それを体験した以上は以前の日常に戻れなくさせることにあります。(宮台真司) --- 宮台真司 永田夏来 かがりはるき 「音楽が聴けなくなる日」

2020年7月8日水曜日

軍事 ルネサンスからナポレオンまで

ほとんどの場合、政府は必要とする物資を自ら生産することはない。その調達のお決まりの段取りは、私的事業者の入札にかかっていた。入札と供給のシステム全体が極度に腐敗していたことは、万人周知の事実でしかない。こうしたシステムを通じて企業家は、不法にも巨額の利益を手にしたのである。とはいうものの軍隊は、最終的にはその必要とするものを入手したのである。たとえそれが品質的に、最低水準のものであったにしてもである。そしてこうした公金の濫用は、19世紀の歴史には決して珍しいことではない。むしろかかる公金の濫用こそが、産業資本主義の発展と経済成長を力強く推進したことも事実なのだ。同様のことは、金融資本主義についても言えるだろう。ロスチャイルド家の家運の勃興は、まさにここにその端を発している。イギリス政府は、対ナポレオン戦争の支払いのため必要な現金を事前入手すべく、彼らの銀行に頼ったのだ。

今や戦争の目的は、地方の征服やある程度重要性をもつ国に対する王朝交代の強制ではない。そんな戦争はもはや、何の意味も持ち得ない。戦争は国家の生死を賭け、敵の殲滅(せんめつ)という唯一の目標に向け企画されるものとなる。こうした目標の完遂(かんすい)のため、それは最大限の残忍さにより繰り広げられた。ナポレオンは旧体制時代の制限戦争を全面戦争にすり替えてしまった。それは同時に、電撃的な作戦を可能な限り目指すものとなる。問題の解決手段を決戦に求めるなら、目標達成のためには、ただひとつの会戦だけで十分であった。なぜならそのような会戦における勝利は、敗者の側の抵抗心を木っ端微塵にするのに十分だったからだ。

ナポレオン軍の速度による勝利は、こうした地理学上の進歩無くして不可能であった。
(略)
部隊の散開と集結こそ、地域の資源を早々と枯渇させることを回避し得る唯一の手法であった。こうした手法によってのみ、巨大化した軍隊を戦場に維持することが可能になる。実際に軍隊というものは、数千数万の人間の宿泊地や飲料水、燃料としての薪、軍馬の飼料等に関する、乗り越え難い諸問題に絶えず悩まされてきた。これらを克服することなくして、大軍をある狭い区域に集結させることなどできない相談である。その解決の秘訣は全軍を、決定的会戦の瞬間に限り同一場所に集結させることに存(そん)した。そのためには、お互いに遠くに離れ合った諸地域に分散する各部隊を、道路網の利用により、速度を調整しつつ分進させることが不可欠であった。


16世紀のマキュアヴェッリの提唱以来、徴兵制こそは近代国家のひとつのメルクマール(目印)であった。我が明治政府における初期の最大の懸案はまさに、この徴兵制の導入に他ならなかった。在地社会における身分や富、教養を度外視して、国民を一律等し並みに兵舎に収容する徴兵制こそが、近代的な民族の神話の根底に擬制(ぎせい)される社会契約の再確認だったのだ。(石黒盛久)

  --- アレサンドロ・バルベーロ 西澤龍生(監訳) 石黒盛久(訳)「近世ヨーロッパ軍事史」

2020年6月21日日曜日

多数派

会社という組織が回り続けるのは、目立ちすぎる誰かが突出した成果を作り出すからでも、目立たなすぎる誰かがそれなりに目立ち始めるからでもない。目立つでもなく、目立たなすぎるでもなく、淡々と仕事をこなす人たち、つまり居酒屋でのみ愚痴り続ける人たちが多数派であるからなのだ。
---  武田砂鉄 『芸能人寛容論』

2020年6月14日日曜日

反体罰

体罰は、人格権を有し、生まれながらに有する人権を保障されるべき子どもたちに対し、その個性に応じた健(すこ)やかな成長を励まし、促(うなが)すという教育の理念とは、根本からして相容れないものである。そもそも弱い立場の者に対して圧倒的優位な立場にある者が、「相手から絶対的に仕返しされることがない」という安心感に守られた上で一方的に暴力を行使するという事態は、明らかにフェアプレーの精神に反しており、スポーツマンシップの名に値するものではない。


さしたる疑問もないまま行われる通常の生徒指導のあり方がある種の子どもたちを孤立させ、あるいは集団化させて、いじめられっ子やいじめ集団をつくり上げていることは、まぎれもない事実です。
 教師がいじめの大きな原因となっているというこの厳粛な事実を直視することなしに、今日のいじめ問題を解決することはけっしてできません。とりわけ、学級全体に対する指導が必要なほどのいじめ問題が発生したときは、教師たるもの、まずはおのれが要因として当該いじめの発生にどのようなかかわりを持っているのかを虚心に内省し、反省してみなければなりません。そして、生徒に対する姿勢や態度を根本から変えていかなければならないのです。

 
「いじめられる方にも原因がある」と考えている教師は少なくない。教師にいじめの相談をした際に、「原因は何だと思う?」「嫌われるようなことをした?」と平気で返すのである。この対応には、「理由もなくいじめを受けるはずがない。だから、お前が悪いんだ」というメッセージが込められている。
(略)
かくして、生徒の不登校も、いじめも、対教師暴力も、非行も、すべては生徒個人の責任にされるのであって、学校や教師が内省する機会が訪れることはないのだ。

---- 南部さおり 『反体罰宣言』

2020年6月3日水曜日

問題点の忘却

思い出すべきだ。私たちの多くは五輪に反対していた。そうやって当初は批判的であったにもかかわらず、せっかくの機会だから、考えを改めてしまう。しかしそれは、問題点をいかにして忘却させるかを画策する人たちの思惑通りである。
  ---- 武田砂鉄 「日本の気配」から

2020年5月27日水曜日

イエスマン

人は失敗を認めないと、誤りの修正ができない。失敗を認めない人間は同じ失敗を繰り返す。過去の失敗だけでなく、これから取り組む政治課題についても、自分の能力が足りないから「できない」ということを言いたくない。だから、「できもしない空約束」をつい口走ってしまう。人格的な脆弱性(ぜいじゃくせい)において、ここまで未成熟な為政者はこれまで戦後日本にはいたことがない。

問題は彼の独特のふるまいを説明することではありません。嘘をつくことに心理的抵抗のない人物、明らかな失敗であっても決しておのれの非を認めない人物が久しく総理大臣の職位にあって、次第に独裁的な権限を有するに至っていることを座視している日本の有権者たちのほうです。いったい何を根拠に、それほど無防備で楽観的していられるのか。僕にはこちらのほうが理解が難しい。(内田樹)

官僚も記者も、自己正当化の仕方はぜんぶ一緒なんです。とりあえず自分が高い職位に上がることが、自分の属する組織のためであり、業界のためであり、ひいては日本のためなのだと自分に言い聞かせている。自分が偉くなるためには、長いものには巻かれ、大樹の陰に寄って、とにかく自分が「陽の当たるところ」に出てゆくことが、すべてに優先する。自分が活躍することができないと日本はダメになる。そうやって、自分は私利私欲のために、自己利益のために、権力のおもねっているのではないかとという自己嫌悪(じこけんお)の尻尾(しっぽ)を切り落としている。そういう人間のことを「イエスマン」というのですが、いまの日本のキャリアパスではイエスマンでないと出世できないのです。(内田樹)

--- 望月衣塑子 「安倍晋三大研究」