2020年12月28日月曜日

社会への適応

 たとえば大学受験では、多くの場合、受験勉強で得た知識はその後の大学生活や社会生活で役に立たない。しかし「どの大学に入るかで人生が決まる」と認識されるため、受験生はそれを了解していながら、多くのエネルギーを受験勉強に投入する。大学に入学した若者がその後情熱を傾けるのは、次なるエントリー競争としての「就職活動」である。


企業の人材選好は、年齢・性別という属性と「現役の学生である」という学校への所属に基づいて規定されていた。個々の若者が仕事に役立つ知識を持っているかは問われず、「○○校出身」というタグを付けた「白紙」状態の若年男性こそが求められた。


「メンバーシップ主義」は結果的に、子ども・若者にとっての「社会」なるものを、学校と企業の複合体に狭く限定していったといえる。普遍的な技能・資格基準が存在しない以上、「社会のなかの自己の位置」は、所属する組織を通じてしか、明かすことができない。そして組織への所属は、高い同質性を持つ中間集団における競争と協調への参入を通じてなされる。そこでは、日常的に身を置く具体的な場である「クラス」や「職場」への順応こそが、「社会への適応」と見なされていく。


欧米では、学校からのドロップアウトは主に低学歴の貧しい子ども・若者に見られる一般的な逸脱(いつだつ)形態であり、他方、フリースクールやホームエディションといったオルタナティブ教育は、独自の価値観に基づいて子どもを教育したい比較的階層の高い親たちが選ぶ「もうひとつの学校」である。この二つは別個の事態であり、「社会の問い直し」として土台を共有することは直接的には起こらない。


「平成」以降、キャリアに関する予測可能性は失われ、不確実性が増大するなか、多くの子ども・若者がスムーズな移行から漏れ落ちようになった。にもかかわらず、いまだに新卒学卒採用は「真っ当な就職先」を得るためのほとんど唯一のルートであり、それ以外のルートは「いばらの道」であり、実質的に個々の努力、才能、ネットワーク、運などに任されている。

ーーー 貴戸理恵 「平成史(小熊英二) 教育」から

先進国

 日本は、もはや「原料を輸入して加工貿易をするアジアの工業国」というよりも、「アジアで作られた工業製品を輸入し消費する先進国」に変化しつつある。その現状認識を欠いた「輸出産業重視・貿易立国」という日本像にもとづいた政策は、一部産業への政策的優遇としてしか機能しない恐れがあった。一部の経済学者は、金融緩和で国内需要が伸びれば景気は回復すると説くが、国内需要が伸びても国内生産が伸びずに需要が海外製品にむかえば、むしろ貿易赤字を拡大することになる。

ーーー 小熊英二 「平成史」から

ストロー効果

 自給自足でやっていける地域からは、移民は出てこない。それが出てくるのは、現地の「生活基盤の喪失(uprooting)」がおきたあとである。つまり、発展途上地域の近代化が進み、教育が普及して、第一次産業ではやっていけない状況が発生した方が、移民は流出しやすくなる。つまり、工業化したほうが労働力移動が発生しやすい。という逆説が生まれる。


公共事業で整備された交通網は、人口や産業の都市への「吸い上げ」をもたらす「ストロー効果」を生んだ。
(略)
土建事業が行なわれれば行われるほど、都市への移動が進む。

ーーー 小熊英二 「平成史」から

工業化時代の想像力

 いまなら、携帯電話で知らせるところだ。ここに描かれている未来像は、移動技術が大幅に進歩しているのに、情報通信技術がまったく変わっていない世界である。『未来少年コナン』に描かれている「インダストリア」では、巨大爆撃機、ロボット、原子力をエネルギー源とする金属製の巨大ビルティングなどがあり、宇宙服のようなユニホームに身を固めた人びとがいる。しかし情報通信技術のほうは、マイクを握って話す卓上式の大型無線装置なのだ。

ーーー 小熊英二 「平成史」から


2020年12月5日土曜日

適応

 ある種の適応が、いかに短い繁栄とその後の長い困難をもたらすか。
感染症と人類の関係についても、同じことが言えるのではないかと思う。
病原体の根絶は、もしかすると、行きすぎた「適応」といえなくはないだろうか。感染症の根絶は、過去に、感染症に抵抗性を与えた遺伝子を、淘汰に対し中立化する。長期的に見れば、人類に与える影響は無視できないものになる可能性がある。


感染症のない社会を作ろうとする努力は、努力すればするほど、破滅的な悲劇の幕開けを準備することになるのかもしれない。大惨事を保全しないためには、「共生」の考えが必要になる。重要なことは、いつの時点においても、達成された適応は、決して「心地よいとはいえない」妥協の産物で、どんな適応も完全で最終的なものでありえないということを理解することだろう。心地よい適応は、次の悲劇の始まりに過ぎないのだから。

---  山本太郎 「感染症と文明-共生への道」から 2011/06/21発行


2020年11月7日土曜日

長いもの

 「人は弱いから群れるのではない。群れるから弱いのだ」(竹中労)

「多くの記者が長いものに巻かれ、戦争報道に突き進むなか、闘い続けた桐生悠々(きりゅうゆうゆう)。今の記者にその覚悟はあるのか」(佐高)

ーーー 望月衣塑子 佐高信 『なぜ日本のジャーナリズムは崩壊したか』

官主主義国家

 現在の日本は「民主主義国家」ではなく「官主主義国家」だと思っています。大臣としてその上に立つ政治家が愚かであればあるほど官主主義は進行し、深化します。(佐高)

あいつらの言い方で私が腹が立つのは、「誤解を招いた」というやつね。誤解したほうが悪いような言い方をする。ふざけんな、誤解じゃなくて正解して怒っているんだよ、と。(望月)

そのことと(総務省 高市早苗の電波停止発言)や安保法制報道について池上に迫った。そうしたら彼は、「反省ということを言って説明をしたら、色がついた答えになるでしょう」
と言うんだ。
でも、それはおかしい。
彼は自分でも、解説が自分の役割だというんだけど、偏らないこと、誰かの側に立たないことは、結局、いまある権力の側に立つことになるんだな。その根本的な力学を彼は理解していない。(佐高)

相手の懐まで深く入り込む取材は、時にスクープや深い解説記事を書くためには必要だ。しかし、権力の内側を描けないようではただのなれ合いにしか見られない。(望月)

ーーー 望月衣塑子 佐高信 『なぜ日本のジャーナリズムは崩壊したか』




2020年10月7日水曜日

世渡り

買えば買うほど景気が良くなるのだから買い物しましょう、と呼びかけるが、どう考えてもそれはおかしい。景気が良くなる人もいるかも知れないが、買い物した本人の財布からはお金がなくなる。それに乗ってはいけない。だからまず、私たちがやらねばならないのは、世間に惑わされる弱い自分を救うことだ。自分を救う道は「始末」と「才覚」である。極めて簡潔(かんけつ)なのだ。

「生の鯛でも干した鯛でも塩鯛でも、祝う心は同じ」「今日の腹も、普段の腹も、腹は同じ」と諭(さと)すところである。「祝う心」さえあれば金を使う必要はない、という意味だ。


 人を使うとは、実は人を育てることなのだ、ということがわかってくる。人を雇うとは、金を払って自分のしたくないことをやらせることではない。一人前の人間をたくさん作る、いわば社会のための仕事が、仕事の重要な側面なのである。


--- 田中優子 『世渡り万の智慧袋』


2020年9月25日金曜日

社会の土台

 マルクスは経済が社会の土台であると考えるが、私は人間が土台だと考える。経済は人間という土台の上に建てられた上部構造にすぎない。それ故、将来の社会を予測する場合、まず土台の人間が予想時点までの間にどのように量的、質的に変化するかを考え、予想時点での人口を土台としてどのような上部構造 - 私の考えでは経済も上部構造の一つである - が構築できるかを考えるべきである。

戦後教育では子供は個人主義的、成績主義的、普遍主義的(縁故者を優遇したり裏で手を回したりしない)、平等主義的であるように教育されている。日本の大人の社会は頑強に集団主義、家柄主義、縁故主義、集団差別主義を固執している。敗戦によって極めて非日本的な教育を押しつけられた結果、日本人はその教育を元に戻す保守的勇気も、大人の社会を新教育に見合うようなものに改変する進歩的勇気も持っていなかった。こうして日本人は、子供時代と大人時代を分裂したままに生きる生活を続けて来たのである。

日本の経営者や労働者には次のような短所 - それはかつて長所として称賛されたものだが - がある。経営者はXをしたいと思っても、自分でXをするとは言い出さない。下、すなわち労働者の方からXをしてくれと言い出すことを待っているのである。他方労働者はXをして欲しいと思っていても自分からは言い出さない。経営者がXをしろというのを待っているのである。

 --- 森嶋通夫 『なぜ日本は没落するか』

2020年9月17日木曜日

スクラップによる再生のための運動

 民衆による再建の運動は、人間が生み出したおびただしい混乱から逃れることはできないという前提から出発する。歴史、文化そして記憶まで、これまでこれまで消されてきたものはもう十分すぎるほどある。この再生のための運動は、白紙(スクラッチ)からではなく、残り物(スクラップ)- つまり、瓦礫や廃品など周りにいくらでも転がっているものから始めようという試みだ。コーポラティズムによる改革運動が衰退の一途をたどりつつ、行く手に立ちふさがる抵抗勢力を撃退するためにショックのレベルをさらに強めていくなか、これらの運動は原理主義の合間を縫って前へ前へと進んで行く。地域社会に根を張り、ひたすら実質的な改革に取り組むという意味においてのみ急進的(ラディカル)なこれらの人々は、自らを単なる修繕屋とみなし、手に入るものを使って地域社会を手直しし、強化し、平等で住みやすい場所へと作り変えている。そして何にも増して、自らの回復力の増強を図っている。

   --- ナオミ・クライン 『ショック・ドクトリン』 から


2020年9月1日火曜日

デマゴーグ

彼女が優先したのは演説の内容ではなく、自分のビジュアル・イメージだった。何を言うかではなく、何を着るか、どんな髪型にするか、それが人の心を左右するという考えは母の教えであり、テレビ界で竹村健一から学んだことでもあった。

「小池さんには別に政治家として、やりたいことはなくて、ただ政治家がやりたいんだと思う。そのためにはどうしたらいいかを一番に考えている。だから常に権力者と組む。よく計算高いと批判されるけれど、計算というより天性のカンで動くんだと思う。それが、したたか、と人には映るけれど、周りになんと言われようと彼女は上り詰めようとする。そういう生き方が嫌いじゃないんでしょう。無理をしているわけじゃないから息切れしないんだと思う。」(池坊保子)

激しい野心と上昇志向を持ち、年上の有力者の懐に飛び込む。論文には盗作の噂がつきまとう。彼(竹中平蔵)もまた、小池同様、学歴、留学経験、英語力を武器にして蜘蛛の糸を必死で摑(つか)み、のぼっていった人である。

「目立つことが好き、思い付きで発言するが体系的、持続的な思考力はない。何が世間に受けるかだけを考えて行動する、大衆を熱狂させる独特の魅力があり、また、そのテクニックに長けているー。それは、そのまま小池にも当てはまる。」(佐野眞一『誰も書けなかった石原慎太郎』から)

自分がどう見られるかを過度に意識した表情のつくり方、話し方、決めゼリフの用意。彼(小泉進次郎)は自分の魅力の振りまき方を知っていた。ルックスと声質の良さ、ゴロ合わせのような言葉づかい。ダジャレで人の気持ちを掴(つか)む。彼もまた、「小池百合子」だった。

「デマゴーグ(注・大衆煽動(せんどう)者型政治家)の態度は本筋に即していないから、本物の権力の代わりに権力の派手な外観(シャイン)を求め、またその態度が無責任だから、内容的な目的をなに一つ持たず、ただ権力のために権力を享受することになりやすい。権力は一切の政治の不可避的な手段であり、従ってまた、一切の政治の原動力であるが、というよりむしろ、権力がまさにそういうものであるからこそ、権力を笠に着た成り上がり者の大言壮語や、権力に溺れたナルシズム、ようするに純粋な権力崇拝ほど、政治の力を堕落させ歪めるものはない」(マックス・ウェーバー著 脇圭平 訳 『職業としての政治』

---  石井妙子 『女帝 小池百合子』から

2020年8月19日水曜日

やましい良心  と 徳の騎士

 「後ろめたさ」が高じれば、頑張っている人の足を引っ張るような悪意につながりかねない。そうした心の動きをニーチェは「やましい良心」と言った。自分の「正しさ」を絶対視し、周囲に強要するような人間をヘーゲルは「徳の騎士」という言葉で考察した。

--- 岩永芳人 『やおいかん 熊本地震 復興への道標』から



2020年8月15日土曜日

回避不可能

起きうる問題がN個あれば、それぞれの問題が「起きる/起きない」の二つの場合しかないとしても、その組み合わせは二のN乗である。Nが少しでも大きくなると、その値は爆発する。起きうる問題が50個あればその組み合わせは、2の50乗、すなわち

1,125,899,906,842,620 通り

である。これはどういう数かというと、不眠不休で1秒間に一つ数えるとして、数え上げるだけで3570万年以上かかる。それらのすべてに事前に練り上げた計画を立てるためには、地球誕生の瞬間から現在までやってもまだ間に合わない。このような計算量の問題は回避不可能である。その上、事態1の起きる確率と事態2の起きる確率が独立であるという保証はどこにもない。事態1が起きたら事態2の起きる確率が上がるというケースが往々にしてある。落ちるはずのないロケットが落ち、起きるはずのない原発事故が起きる理由はここにある。もともと不安定で制御困難な社会へのはたらきかけに同じアプローチを適用するのは無謀である。

--- 安冨歩 「複雑さを生きる やわらかな制御」

少数の理性を持つ者が社会を制御しうるという理論は原理的に間違っている。このような意味の理性などというものはそもそもありえない。理性を活用してものごとを深く観察し、理解しようとしても、無限の多様性を持つものを有限の記述によって処理することはできない。たとえうまい記述に到着したとしても、そこに非線形性が介在しておれば、適切な近似を得るために初期値を無限精度で設定する必要が生じる。無限精度で初期値を設定するとは、軌道を無限の先まで知っていることと等価である。つまり、あらかじめすべてのことがわかっていれば予測できる、という無意味なことになる。それ以外にも計算量爆発という問題がある。ある事態が「ある」か「ない」かであるという単純な場合を想定してさえ、N個の要素が関与しておれば、可能な組合せは2のN乗になる、というあの回避不可能な罠である。

--- 安冨歩 「複雑さを生きる やわらかな制御」

2020年7月23日木曜日

現実

NHKスペシャル「戦慄(せんりつ)の記録 インパール」(2017年8月15日放送)では、新たに発見された膨大な機密資料を基に、その真相に迫っていた。
 曖昧な意思決定と、組織内の人間関係が優先され、無謀な作戦は発令された。兵士は三週間分の食料しか持たされず、行軍中に攻撃を受け多くの死傷者を出すも、大本営は作戦継続に固執した。イギリス軍の戦力を軽視し、自軍の補給物資の確保をせず、当初三週間で攻略するはずが戦闘は四ヶ月に及んだ。そして、インパールには誰一人として巡り着けず、約三万人が命を落とした。このうち約六割は作戦中止後に命を落としたという。(田崎基)

日本軍が負け始めてからの戦争指導と重なって見える。場当たり的な弥縫策(びぼうさく)で「負けている現実」から多くの人の目を逸らそうとする。長期戦を戦うには、人的損害を減らす努力をせねばならないのに、人的損害を増やす玉砕や特攻を過剰に美化礼賛(びからいさん)する。(山崎雅弘)

苦しんでいるのは一部の誰かではなく、多くの人だという認識を持つ必要がある。
(略)
 年収300万円以下が全体の約32%を占める現実を踏まえると、日々の生活は相当厳しいにもかかわらず、中間層で踏ん張っているのだと信じてたい人が大勢いるということだ。(井手英策)


前世紀の敗戦末期にこの国は、現実には負けているのにもかかわらず「勝っている!」と宣伝し、国民に貧しさを強いている現実を覆い隠すため「欲しがりません!勝つまでは」という標語を掲げ、黙らせた。物資や食糧の補給の見通しも立たないのに戦線を拡大し続け、進軍した部隊が全滅したときには「玉砕」という言葉を使い美化していった。「玉砕」とは玉が美しく砕けることを意味する。(田崎基)


---田崎基 『令和日本の敗戦』から

権利

国民が権利は天から付与される、義務は果たさなくていいと思ってしまうような天賦人権論(てんぷじんけんろん)をとるのは止めよう、というのが私たちの基本的な考えです。国があなたに何をしてくれるのか、ではなくて国を維持するには自分に何ができるのか、を皆が考えるような前文にしました。(片山さつき)


沖縄だけ、戦争が終わっていないかのようだと思いませんか。私はそう思いますよ。もう終わらせたい。基地は要らない。私たちはそうした民度を何度も示してきました。
 今に続くつらい歴史を沖縄は背負っています。だからこそ、私たちには平和に生きる権利があると思う。米軍基地も自衛隊の基地も要らない。力で、武力で、何かをしようとすれば、必ず力で反発を受ける。基地があるから攻撃されて戦争になる。そのことを沖縄は骨身に沁みて知っている。だからこそ「基地は要らない」と言い続けなければいけない。(阿波根數男 あわごん かずお)

 そもそも権利概念は、個人のエゴイズムを認め、それが衝突することを前提に存在している。だが、エゴイズムは存在したにという前提に立つと、権利の観念も必要なくなってそまう。
 したがって、すべての日本人は潜在的に無権利状態にあるのだろう。だから、誰かが「私の権利を回復せよ」などと言い出すと、その人があたかも不当な特権を要求しているかのように錯覚される。そして主張した人が袋叩きに遭う。
 この状況は、明治時代に生まれた「家族国家観」という国体イデオロギーがいかに強力で長命かを物語っている。ここの、米国を媒介として国体の構造が生き延びたことの深刻さが浮かび上がる。(白井聡)

「そげん恥ずかしかもん、うちは一銭ももろうとらん。そんかもん、もろうとったら、あんたが恥かこうが!絶対そげんかことよそ様に言いなさんな!」
 僕は怖くて泣いた。いま思えば、これは暴言だ。生活保護は権利なんだから、堂々と使えばいい。だが、あのように言い放った、母の、日本人のメンタリティは理解できる。(井手英策)

「表現の自由」とはそもそも権力と対峙関係において最も発揮される権利である。したがって、権力への批判、批評、その前提となる権力の監視こそが、報道が担うべき最重要課題である。言葉を言い換えてごまかし、現実を捩じ曲げている権力者がのさばっているのであれば「嘘をついている」と指弾しなければならない。 (田崎基)

---田崎基 『令和日本の敗戦』から

根っこは同じ

沖縄の問題、福島の問題、東京の新大久保や大阪で行われている在日韓国朝鮮人を差別する排除の動き。他にも大きな問題が身の回りでごろごろしている。それでも「知らない、聞かない、関係ない」で済ますことを続けていれば、回り回って必ず自分に降りかかってくる。
(略)
こんな状況で「政治的、社会的な問題に首を突っ込まない」なんてことを言っていると、間違いなく自分にどんどん突き付けられる。軍事費が突出すれば必ず別のところが削られる。年金支給年齢が75歳に引き上げられるかもしれない。医療費の窓口負担も天井知らずで上がっていくかもしれない。そんなことになったら、人は人としてまっとうに暮らせなくなるだろう。ここ辺野古で起きていることと、根っこは同じなんだよ。(山城博治)

--- 田崎基 『令和日本の敗戦』から


2020年7月14日火曜日

許さないということ

一番は『寛容』になることだと思います。怒りとかストレスとか、ハラスメントが一日中ついて回るような今の世の中のキーワードは『許さない』ことだと思うんですよ。例えば国会議員が不倫してようが全然関係ないはずだけど、『不倫はいけない、許さない』とかいろんなものを許さない、許さない・・・って、どんどんシャープになってきて幅がきかなくなってきて、どんどん狭くなってきた価値観同士がぶつかり合うと、もう多勢に無勢で。『共存する世の中』『多様性』って口では言うけど、共存なんか全然できていないですよね。(大崎志朗)
 --- 宮台真司 永田夏来 かがりはるき 「音楽が聴けなくなる日」

アートと娯楽

アート(音楽を含む)は娯楽と違い「人の心に傷をつける」のを目的とします。娯楽の目的がリクリエーション(回復)、即ちシャワーを浴びて日常に戻ることにあるとすれば、アートの目的は、それを体験した以上は以前の日常に戻れなくさせることにあります。(宮台真司) --- 宮台真司 永田夏来 かがりはるき 「音楽が聴けなくなる日」

2020年7月8日水曜日

軍事 ルネサンスからナポレオンまで

ほとんどの場合、政府は必要とする物資を自ら生産することはない。その調達のお決まりの段取りは、私的事業者の入札にかかっていた。入札と供給のシステム全体が極度に腐敗していたことは、万人周知の事実でしかない。こうしたシステムを通じて企業家は、不法にも巨額の利益を手にしたのである。とはいうものの軍隊は、最終的にはその必要とするものを入手したのである。たとえそれが品質的に、最低水準のものであったにしてもである。そしてこうした公金の濫用は、19世紀の歴史には決して珍しいことではない。むしろかかる公金の濫用こそが、産業資本主義の発展と経済成長を力強く推進したことも事実なのだ。同様のことは、金融資本主義についても言えるだろう。ロスチャイルド家の家運の勃興は、まさにここにその端を発している。イギリス政府は、対ナポレオン戦争の支払いのため必要な現金を事前入手すべく、彼らの銀行に頼ったのだ。

今や戦争の目的は、地方の征服やある程度重要性をもつ国に対する王朝交代の強制ではない。そんな戦争はもはや、何の意味も持ち得ない。戦争は国家の生死を賭け、敵の殲滅(せんめつ)という唯一の目標に向け企画されるものとなる。こうした目標の完遂(かんすい)のため、それは最大限の残忍さにより繰り広げられた。ナポレオンは旧体制時代の制限戦争を全面戦争にすり替えてしまった。それは同時に、電撃的な作戦を可能な限り目指すものとなる。問題の解決手段を決戦に求めるなら、目標達成のためには、ただひとつの会戦だけで十分であった。なぜならそのような会戦における勝利は、敗者の側の抵抗心を木っ端微塵にするのに十分だったからだ。

ナポレオン軍の速度による勝利は、こうした地理学上の進歩無くして不可能であった。
(略)
部隊の散開と集結こそ、地域の資源を早々と枯渇させることを回避し得る唯一の手法であった。こうした手法によってのみ、巨大化した軍隊を戦場に維持することが可能になる。実際に軍隊というものは、数千数万の人間の宿泊地や飲料水、燃料としての薪、軍馬の飼料等に関する、乗り越え難い諸問題に絶えず悩まされてきた。これらを克服することなくして、大軍をある狭い区域に集結させることなどできない相談である。その解決の秘訣は全軍を、決定的会戦の瞬間に限り同一場所に集結させることに存(そん)した。そのためには、お互いに遠くに離れ合った諸地域に分散する各部隊を、道路網の利用により、速度を調整しつつ分進させることが不可欠であった。


16世紀のマキュアヴェッリの提唱以来、徴兵制こそは近代国家のひとつのメルクマール(目印)であった。我が明治政府における初期の最大の懸案はまさに、この徴兵制の導入に他ならなかった。在地社会における身分や富、教養を度外視して、国民を一律等し並みに兵舎に収容する徴兵制こそが、近代的な民族の神話の根底に擬制(ぎせい)される社会契約の再確認だったのだ。(石黒盛久)

  --- アレサンドロ・バルベーロ 西澤龍生(監訳) 石黒盛久(訳)「近世ヨーロッパ軍事史」

2020年6月21日日曜日

多数派

会社という組織が回り続けるのは、目立ちすぎる誰かが突出した成果を作り出すからでも、目立たなすぎる誰かがそれなりに目立ち始めるからでもない。目立つでもなく、目立たなすぎるでもなく、淡々と仕事をこなす人たち、つまり居酒屋でのみ愚痴り続ける人たちが多数派であるからなのだ。
---  武田砂鉄 『芸能人寛容論』

2020年6月14日日曜日

反体罰

体罰は、人格権を有し、生まれながらに有する人権を保障されるべき子どもたちに対し、その個性に応じた健(すこ)やかな成長を励まし、促(うなが)すという教育の理念とは、根本からして相容れないものである。そもそも弱い立場の者に対して圧倒的優位な立場にある者が、「相手から絶対的に仕返しされることがない」という安心感に守られた上で一方的に暴力を行使するという事態は、明らかにフェアプレーの精神に反しており、スポーツマンシップの名に値するものではない。


さしたる疑問もないまま行われる通常の生徒指導のあり方がある種の子どもたちを孤立させ、あるいは集団化させて、いじめられっ子やいじめ集団をつくり上げていることは、まぎれもない事実です。
 教師がいじめの大きな原因となっているというこの厳粛な事実を直視することなしに、今日のいじめ問題を解決することはけっしてできません。とりわけ、学級全体に対する指導が必要なほどのいじめ問題が発生したときは、教師たるもの、まずはおのれが要因として当該いじめの発生にどのようなかかわりを持っているのかを虚心に内省し、反省してみなければなりません。そして、生徒に対する姿勢や態度を根本から変えていかなければならないのです。

 
「いじめられる方にも原因がある」と考えている教師は少なくない。教師にいじめの相談をした際に、「原因は何だと思う?」「嫌われるようなことをした?」と平気で返すのである。この対応には、「理由もなくいじめを受けるはずがない。だから、お前が悪いんだ」というメッセージが込められている。
(略)
かくして、生徒の不登校も、いじめも、対教師暴力も、非行も、すべては生徒個人の責任にされるのであって、学校や教師が内省する機会が訪れることはないのだ。

---- 南部さおり 『反体罰宣言』

2020年6月3日水曜日

問題点の忘却

思い出すべきだ。私たちの多くは五輪に反対していた。そうやって当初は批判的であったにもかかわらず、せっかくの機会だから、考えを改めてしまう。しかしそれは、問題点をいかにして忘却させるかを画策する人たちの思惑通りである。
  ---- 武田砂鉄 「日本の気配」から

2020年5月27日水曜日

イエスマン

人は失敗を認めないと、誤りの修正ができない。失敗を認めない人間は同じ失敗を繰り返す。過去の失敗だけでなく、これから取り組む政治課題についても、自分の能力が足りないから「できない」ということを言いたくない。だから、「できもしない空約束」をつい口走ってしまう。人格的な脆弱性(ぜいじゃくせい)において、ここまで未成熟な為政者はこれまで戦後日本にはいたことがない。

問題は彼の独特のふるまいを説明することではありません。嘘をつくことに心理的抵抗のない人物、明らかな失敗であっても決しておのれの非を認めない人物が久しく総理大臣の職位にあって、次第に独裁的な権限を有するに至っていることを座視している日本の有権者たちのほうです。いったい何を根拠に、それほど無防備で楽観的していられるのか。僕にはこちらのほうが理解が難しい。(内田樹)

官僚も記者も、自己正当化の仕方はぜんぶ一緒なんです。とりあえず自分が高い職位に上がることが、自分の属する組織のためであり、業界のためであり、ひいては日本のためなのだと自分に言い聞かせている。自分が偉くなるためには、長いものには巻かれ、大樹の陰に寄って、とにかく自分が「陽の当たるところ」に出てゆくことが、すべてに優先する。自分が活躍することができないと日本はダメになる。そうやって、自分は私利私欲のために、自己利益のために、権力のおもねっているのではないかとという自己嫌悪(じこけんお)の尻尾(しっぽ)を切り落としている。そういう人間のことを「イエスマン」というのですが、いまの日本のキャリアパスではイエスマンでないと出世できないのです。(内田樹)

--- 望月衣塑子 「安倍晋三大研究」

同じくらいに不満足な解

公人は「私は中立です」と宣言すればそれで済むわけじゃない。だって、中立というような定点は存在しないんだから。中立というのは、「反対者を含めて全体を代表し、敵対者と折り合って統治する」ときに採択される暫定的な足場のことです。定位置ではない。状況が変わるごとに変わる。「私はこの政策に賛成でも反対でもない。どちらでもない」ということが中立だと思っている人がときどきいますけれど、中立であるというのは、そんな知的負荷の少ない仕事ではありません。この人たちの言う「中立」はただ判断を保留しているというだけのことです。(内田樹)

合意形成というのは、みんなが同じくらいに不満足な解を出すことなんです。それが民主主義における「落としどころ」なんです。大岡裁きに「三方一両損」というのがありますけれど、まさにそれなんです。(内田樹)

多数決での賛否には「多数決での賛否」以上の意味はない。どこかで決めなければ仕方ないから、やむなく投票で賛否を問うだけの話で、投票結果が教えるのは有権者はどちらの政策を選好したかだけであって、どちらの政策が正しかったかを判定したわけじゃない。(内田樹)


--- 望月衣塑子 「安倍晋三大研究」

スキャンダル国家

人びとが政府についてすべて知っている、これが民主主義である。政府は多くのことを知っているが、人びとは政府のことを知らない、これは専制政治である。

政権や政府の意向にまつろわぬ者などは「左翼」であり、「日本人として恥」とまで罵(ののし)っても構わないという”空気”。これが日本社会を覆い尽しているとは思わないが、少なくともこうした、”空気”を振りまく者たちが”保守”を自称し、現政権をを熱心に支えている。

保守論壇の質が落ちたと近年よく言われる。だがそれは全く正確ではない。本来まだ語るべき能力も姿勢もない人間が、右派や保守を自称し、時に政治勢力も背景にしながら出てきているだけだ。(中村文則)

個々の外国人の人権を尊重せずに、「安価な労働力」か「治安対策の対象」としか見られないような社会が、繁栄を享受できるはずもない。(井田純)

--- 青木理 「暗黒のスキャンダル国家」

2020年5月2日土曜日

元に戻ってほしくないことについて考える

「水圧のかかった水道管をふさいでいた手を離せば、水はまた元の勢いで噴出を始める。つまり、感染者がまたしても指数関数的に増え始めるわけだ。こうしてもっとも困難な第三の段階、忍耐の段階が始まる。」

「僕らは自然に対して自分たちの時間を押しつけることに慣れており、その逆は晴れていない。だから流行があと一週間で終息し、日常が戻ってくることを要求する。要求しながら、かくあれかしと願う。
 でも、感染症の流行に際しては、何を希望することが許され、何は許されないかを把握すべきだ。なぜなら、最善を望むことが必ずしも正しい希望の持ち方とは限らないからだ。」

「COVIC-19とともに起きているようなことは、今後ますます頻繁に発生するだろう。なぜなら新型ウィルスの流行はひとつの症状にすぎず、本当の感染は地球全体の生態系のレベルで起きているからだ。」

「今回の流行で僕たちは科学に失望した。確かな答えがほしかったのに、雑多な意見しか見つからなかったからだ。ただ僕らは忘れているが、実は科学とは昔からそういうものだ。いやむしろ、科学とはそれ以外のかたちではありえないもので、疑問は科学にとって真理に増して聖なるものなのだ。」

「今、戦争を語るのは、言ってみれば恣意的な言葉遊びを利用した詐欺だ。少なくとも僕らにとっては完全に新しい事態を、そう言われれば、こちらもよく知っているような気になってしまうほかのもののせいにして誤魔化そうとする詐欺の、新たな手口なのだ。」

「でも僕は忘れたくない。最初の数週間に、初期の一連の控えめな対策に対して、人々が口々に「頭は大丈夫か」と嘲(あざけ)り笑ったことを、長年にわたるあらゆる権威の剥奪により、さまざまな分野の専門家に対する脊髄反射的な不信が広まり、それがとうとうあの、「頭は大丈夫か」という短い言葉として顕現したのだった。不信は遅れを呼んだ。そして遅れは犠牲をもたらした。」

「もっとも可能性の高いシナリオは、条件付き日常と警戒が交互する日々だ。しかし、そんな暮らしもやがて終わりを迎える。そして復興が始まるだろう。
 支配階級は肩を叩きあって、お互い見事な対応ぶり、真面目な働きぶり、犠牲的行動を褒め讃えるだろう。自分が批判の的になりそうな危機が訪れると、権力者という輩(やから)はにわかに団結し、チームワークに目覚めるものだ。一方、僕らはきっとぼんやりしてしまって、とにかく一切をなかったことにしたがるに違いない。到来するのは闇夜のようなものであり、また忘却の始まりでもある。
 もしも、僕たちがあえて今から、元に戻ってほしくないことについて考えない限りは、そうなってしまうはずだ。」

--- パオロ・ジョルダーノ 『コロナの時代の僕ら (飯田亮介訳)』

2020年4月27日月曜日

文明国家であるかどうか

一つの国が文明国家であるかどうか[の]基準は、 高層ビルが多いとか、クルマが疾走しているとか、武器が進んでいるとか、軍隊が強いとか、科学技術が発達し ているとか、芸術が多彩とか、さらに、派手なイベントができるとか、花火が豪華絢爛とか、おカネの力で世界 を豪遊し、世界中のものを買いあさるとか、決してそうしたことがすべてではない。基準はただ一つしかない、 それは弱者に接する態度である

 --- 方方(Fang Fang)(日本語訳は日中福祉プランニングの王青(おう・せい)

2020年4月22日水曜日

悪性ウィルス

私なりの結論を一言でいえば、戦後日本の民主主義体制を死滅に追い込みかねない悪性ウィルスのようなものではないかと思っている。悪性であっても少数のウィルスが身体の端っこで蠢(うごめ)いているだけなら、多少痛くても多様性の原則の下で許容することもできるが、その数が増えて身体全体に広がり始めると重大な病を発症して死に至る。
 しかも、現在は日本社会全体に亜種のウィルスや類似のウィルス、あるいは低質なウィルスが拡散し、蔓延し、ついには脳髄=政権までが悪性ウィルスに蝕まれてしまった。このままいけば、近代民主主義の原則すら死滅してしまいかねない。
  ---  青木理 『日本会議の正体』から

2020年4月7日火曜日

浮かれるんじゃねえ

「おめえらが安全だからって、浮かれるんじゃねえよ。フクシマの復興を後回しにして、スタジアムかよ。資材も何もかも持って行きやがって。あたしたちは葉民かよ。」

「ブラジルも景気は悪かったけれど、ワールドカップもオリンピックもやった。そして、誰も言わないが、もっと駄目になった。疲弊している国ほど、派手にやって失敗するんだ。」

――― 桐野夏生 『バラカ』 から

2020年3月24日火曜日

新しい「文明」

新しい「文明」に素早く適応する日本人のお家芸は、同時に私たち日本人が「ふらふらして、きょろきょろして、自分が自分であることにまったく自信が持てず、最新流行の世界標準に雪崩を打って飛びついて、幣履を棄つるが如く(へいりをすつるがごとく:破れた履物を捨てるように、何の未練もなく捨て去ることのたとえ。)伝統や古人の知恵を捨て、いっときも同一的であろうとしないというほとんど病的な落ち着きのない」(内田樹『日本辺境論』から) 体質からつくられたものであるかもしれません。
  ---  池田清 『神戸 近代都市の過去・現在・未来』から

西洋の開化(すなわち一般の開化)は内発的であって、日本の現代の開化は外発的である。ここに内発的と云うのは内から自然に出て発展するという意味でちょうど花が開くようにおのずから蕾が破れて花弁が外に向かうを云い、また外発的とは外からおっかぶさった他の力でやむをえず一種の形式を取るのを指したつもりなのです。(略)こういう開化の影響を受ける国民はどこかに空虚の感がなければなりません。またどこかに不満と不安の念を懐(いだ)かなければなりません。それをあたかもこの開化が内発的でもあるかのごとき顔をして得意でいる人のあるのは宜しくない。それはよほどハイカラです。宜しくない。虚偽(きょぎ)でもある。軽薄でもある(夏目漱石)

2020年3月7日土曜日

キャッチフレーズ

安倍首相 キャッチフレーズ内閣のあゆみ

「危機突破内閣」 2012年12月
「三年間抱っこし放題」 2013年4月
「働き方改革」 2016年8月
「ニッポン一億総活躍」 2016年6月
「すべての女性が輝く社会」 2017年6月
「結果本位の仕事人内閣」 2017年8月
「国難突破解散」 2017年9月
「人生100年時代」 2017年9月
「人づくり革命」 2017年6月

 --- 望月衣塑子 古賀茂明「独裁者」から

2020年3月4日水曜日

未必の故意

そもそも東京電力・福島第一原発事故の直接の誘因は2006年の第1次政権の時、安倍晋三が原発の津波冠水等への予備電源の必要性を平然と否定したことだ。その結果たる人類史上空前の核破局隠蔽のため、依然続く「原子力緊急事態宣言」下、世界を欺(あざむ)いて招致した醜い「東京五輪」に固執し、ついには現在、底知れぬ脅威の新型コロナウィルスについても、当初これを奇貨(きか)とする「憲法改正」の妄執(もうしゅう)までが綯(な)い交(ま)ぜとなった”未必の故意”の感染拡大をもたらしているのが安倍政権である。

もとより「戦後」最悪の安倍政権は他の悪政・不正も枚挙に暇(いとま)がない。だが何より一国の為政者として二度も、かかる戦争級の危機をもたらした独裁者をなお現在の地位に留め続けるなら、日本の「主権者」もまた人類史上空前の愚民との譏(そし)りを免れまい。理性皆無の国家崩壊が、加速している。

--- 山口泉 肯(うべな)わぬ者からの手紙 週刊金曜日1270号 から


2020年3月3日火曜日

2016年の都知事選挙

 某テレビ局の開票特番で公表されたアンケート結果では、候補者への投票理由として一番に挙げられたのが「政策」だった。
 有権者が一番の投票理由に「政策」を挙げるのであれば、なぜここまで具体的な政策を掲げる中川が1万6584票しか取れないのだろう。そして、ふんわりとしたスローガンにしか見えない「主要3候補」の得票だけが伸びたのだろう。本当に有権者は「主要3候補」以外の政策も見ていたのだろうか。
ーーー 畠山理仁 「黙殺」から

2020年3月1日日曜日

目くらまし

 『花神』なんて小説がいかに間違っているかというと、侍同志でドッテンバッタンやっていることばかり書いているんだが、あの時期には百姓一揆がぐんぐん大きくなっているんだよ。それが全然出てこない。慶応3年なんて、ほとんど全国的に百姓一揆が起こっている。フランス革命と似たようなものが起こりそうになっているんですよ。それだから侍がああして荒れているんですね。高杉晋作にしても坂本龍馬にしても若死をするくらい焦りに焦っている。なぜああいう頭のいい連中があんなに焦っていたかっていうことですよ。 
 百姓一揆が全国的に起こって、革命が起きれば、武士階級なんてなくなっちゃうんだからね。武士階級を救うために徳川幕府を犠牲にしなけりゃならない。武士階級を救うためには天皇でもいいじゃないかという考え方だ。百姓一揆と町人の打ち崩しを”ええじゃないか”っていう方向へ巧みに誘導する。これは今、万国博覧会とか野球なんかに誘導しているのと似ているんですよ。大衆が何かを求めている、その本当の方向に到達しないように、考えることができなくなるようないろんな誘惑をやるわけだ。

ーーー 『羽仁五郎の大予言』から 

発行部数や社員を守るために

日本では選挙のたびにつまり世論調査のたびごとに、”わからない”という人の数が非常に多いというんだね。30パーセントに近いんだからね。それから、選挙のたびに与党が勝っちゃうんだよね。これが彼ら(国際新聞経営者協会の大会での西ドイツの新聞の代表)にはわからない。その原因を彼は「日本の新聞の中立性にある」といって指摘している。つまり新聞は党派を明らかにすべきだとね。新聞が中立では、国民に判断の仕様がないんだよ。Don't Know「わからない」という率が日本では異常に高くなるのも当然なんだよ。


日本の新聞はこの前の戦争のとき、発行部数や社員を守るために、批判もできずに戦争に協力した。朝日、毎日、読売の記者諸君は、戦争中の新聞を取り出して一度読んでみたらいい。

ーーー 『羽仁五郎の大予言』から


2020年1月13日月曜日

窒息しますよ

いま安倍政権を5割近いひとが支持しています。5割近いひとが、この時代の空気を自分にとって一番自然なものだと思っているということです。この酸欠状態のなかで自然に呼吸できていると思っている。彼らは抑圧とか、息苦しさとか、生きづらさとかいうものを、もう感じていない。酸欠状態そのものが自然になっている。このひとたちに、「息苦しくないですか?」「どこかに穴をあけて新鮮な空気を入れないと窒息しますよ」ということを伝えないと危険だと思います。

 中高一貫教育がそうです。あの制度が子どもたちの成熟をどれほど妨げているか、みんな無自覚すぎます。
 12歳から18歳まで、同じ仲間と過ごすというのはある種の「地獄」ですよ。変化し、複雑化し成熟してゆくことを制度的に阻害されているんですから。

ーーー 内田樹 「週刊金曜日1263号 2020年の日本と世界」から

2020年1月12日日曜日

見ろよ

電車や駅に貼られている暴力行為防止のポスターありますよね。女の人が手で目を覆っている姿が描かれて、「暴力・・・もう見たくない」と書いてある。でも、私は「見ろよ」って思うんです。被害者がいて、加害者がいて、それを第三者であるあなたが見なかったら、誰がその暴力を止められるのか。でも、多くの人は、見たくないんですよね。だからいつまでたっても解決しない。

植民地支配について日本の学生に授業したりすると、「日本がひどいことをした」と謝ってくる子がいます。そういうとき私は「なんであなたが謝るの?」「あなたが強姦や泥棒や人殺しをしたわけじゃないでしょ?」「あなたが謝ると本当の犯人が逃げちゃうよ」と言うんです。逆に、「日本はいいこともしてやった」と言う奴もいます。そういう奴には、「あなたがやったのか?」「人の手柄を取るな」って。

ーーー 蓮池 徹 辛淑玉 「拉致と日本人」から

老いの生き方

老年は石だ。ぞうり虫だ。いなくてもいいものだ。舞台から下りようとして、とまどって、まごまごしているだけの人間だ。だが、それだけのことで、その他の点では、諸君とおんなじなのだ。なに一つ成長したわけでもないのに、うかうかとつれてこられて、いわゆる年よりがいのない連中が大方なのだ。彼らがうるさいのは、不平のもってゆきどころがないからだ。そして、本心は、若くなりたいのだ。(金子光晴)

われわれは気むずかしさや目の前にある物事に対する険悪を知恵と呼ぶ。けれども、実を言うと、われわれは不徳を捨て去ったのではなくて、別な不徳と、しかも私の考えでは、もっと悪い不徳と取り替えている。愚かな倒れかかった自尊心や、飽き飽きするおしゃべりや、とげとげしい人づきの悪い気分や、迷信や、使いもしないお金に対する滑稽なほどの心配などのほかに、羨望や、不平や、邪悪までがいっそうひどさを増しているのである。老年はわれわれの顔よりも心に多く皺を刻む。だから、年老いても、酸っぱい、かび臭い匂いのしない心というものはめったにないし、あるとしてもごくまれである。人間は成長に向かっても、減退に向かっても全身で進む。(モンテーニュ)

ーーー 鶴見俊輔 『老いの生き方』 から