2018年9月17日月曜日

呪縛 そして 集団的呪縛

「呪縛」とは「不条理」な「虚像」や「心情」にしがみつくことであり、自らが意識せずに取り込んでしまい、離脱しようとすると、強い罪悪感が喚起(かんき)されるある種の「規範」や「信条」を示す。「集団的呪縛」とはそれが「集団」によって共有され、再生産され、集団の構成員に強要され、なおかつ外的状況が変化し、集団の構成員や集団の存続に明らかに不利な働きをすることがわかっていても依然として、その集団によって「継承」「共有」されることをいう。そこから離脱しようとするものは「共同体の制裁」と「非難」に遭い、強い罪悪感を抱かされ、苦悩する。


原発に反対する人はしばしば、「福島原発事故は共同体を破壊し、家族を破壊した」と指摘する。しかし実のところ、原発事故が破壊したのは「政府や科学技術への信頼」という「人知」にもとづいた「かりそめの共同体」に過ぎない、と言うべきかもしれない。そもそも反対意見の封じ込め、排斥し、地域振興とばかりに10基もの原発を地域内に招きいれ、いつ起こるとも知れない事故と隣りあわせで、いかに「平和」な「地域社会」や「家族」を作り出しても、それは「砂上の楼閣」のごとき「見せ掛け」であることを我々は認めなくてはならない。現代日本社会はまさに、この「砂上の楼閣」を「繁栄」であると読み替えてきたのである。

  ---  深尾葉子 『魂の脱植民地化とは何か』から

蓋の上の人格

これまで「逃げること」ばかり考えていた過去の自分に別れを告げ、はじめて「守りたいもの」のために戦うことに喜びを見出すハウルは、一見「変身」したかに見える。しかし呪いの秘密が解けないまま、戦いによって平和を得ようとするその姿は、実は何一つ変わっていない。これまでと同じ扉に、入り口の色を新しく変えて、出てゆく空間を取り替えることで「蓋の上の人格」の一部を入れ替えただけである。(ハウルの動く城)
  ---   深尾葉子 『魂の脱植民地化とは何か』から

2018年9月2日日曜日

本物っぽければ

画一化するロードサイドの風景は「柴崎コウ」的である。本物っぽければ、本物でなくてもヨシ。本来求められているのは「柴咲コウ」なのにみんなが「柴崎コウ」でヨシとしているから、「柴崎コウ」のまま街づくりを進めてしまう。個性に欠ける店の並びが、本物ではない気配を許しながら多量に配置されていく。「これで良かったんだっけ?」と誰に確かめるでもなくコピペが続く。新たに街づくりが提唱される時、その路肩に「もう片方の軍手」が転がっている可能性に目をやることができるかできないか。画一化から逃れる方法はやっぱりそこにある。

--- 武田砂鉄 『紋切型社会』から