2020年5月27日水曜日

イエスマン

人は失敗を認めないと、誤りの修正ができない。失敗を認めない人間は同じ失敗を繰り返す。過去の失敗だけでなく、これから取り組む政治課題についても、自分の能力が足りないから「できない」ということを言いたくない。だから、「できもしない空約束」をつい口走ってしまう。人格的な脆弱性(ぜいじゃくせい)において、ここまで未成熟な為政者はこれまで戦後日本にはいたことがない。

問題は彼の独特のふるまいを説明することではありません。嘘をつくことに心理的抵抗のない人物、明らかな失敗であっても決しておのれの非を認めない人物が久しく総理大臣の職位にあって、次第に独裁的な権限を有するに至っていることを座視している日本の有権者たちのほうです。いったい何を根拠に、それほど無防備で楽観的していられるのか。僕にはこちらのほうが理解が難しい。(内田樹)

官僚も記者も、自己正当化の仕方はぜんぶ一緒なんです。とりあえず自分が高い職位に上がることが、自分の属する組織のためであり、業界のためであり、ひいては日本のためなのだと自分に言い聞かせている。自分が偉くなるためには、長いものには巻かれ、大樹の陰に寄って、とにかく自分が「陽の当たるところ」に出てゆくことが、すべてに優先する。自分が活躍することができないと日本はダメになる。そうやって、自分は私利私欲のために、自己利益のために、権力のおもねっているのではないかとという自己嫌悪(じこけんお)の尻尾(しっぽ)を切り落としている。そういう人間のことを「イエスマン」というのですが、いまの日本のキャリアパスではイエスマンでないと出世できないのです。(内田樹)

--- 望月衣塑子 「安倍晋三大研究」

同じくらいに不満足な解

公人は「私は中立です」と宣言すればそれで済むわけじゃない。だって、中立というような定点は存在しないんだから。中立というのは、「反対者を含めて全体を代表し、敵対者と折り合って統治する」ときに採択される暫定的な足場のことです。定位置ではない。状況が変わるごとに変わる。「私はこの政策に賛成でも反対でもない。どちらでもない」ということが中立だと思っている人がときどきいますけれど、中立であるというのは、そんな知的負荷の少ない仕事ではありません。この人たちの言う「中立」はただ判断を保留しているというだけのことです。(内田樹)

合意形成というのは、みんなが同じくらいに不満足な解を出すことなんです。それが民主主義における「落としどころ」なんです。大岡裁きに「三方一両損」というのがありますけれど、まさにそれなんです。(内田樹)

多数決での賛否には「多数決での賛否」以上の意味はない。どこかで決めなければ仕方ないから、やむなく投票で賛否を問うだけの話で、投票結果が教えるのは有権者はどちらの政策を選好したかだけであって、どちらの政策が正しかったかを判定したわけじゃない。(内田樹)


--- 望月衣塑子 「安倍晋三大研究」

スキャンダル国家

人びとが政府についてすべて知っている、これが民主主義である。政府は多くのことを知っているが、人びとは政府のことを知らない、これは専制政治である。

政権や政府の意向にまつろわぬ者などは「左翼」であり、「日本人として恥」とまで罵(ののし)っても構わないという”空気”。これが日本社会を覆い尽しているとは思わないが、少なくともこうした、”空気”を振りまく者たちが”保守”を自称し、現政権をを熱心に支えている。

保守論壇の質が落ちたと近年よく言われる。だがそれは全く正確ではない。本来まだ語るべき能力も姿勢もない人間が、右派や保守を自称し、時に政治勢力も背景にしながら出てきているだけだ。(中村文則)

個々の外国人の人権を尊重せずに、「安価な労働力」か「治安対策の対象」としか見られないような社会が、繁栄を享受できるはずもない。(井田純)

--- 青木理 「暗黒のスキャンダル国家」

2020年5月2日土曜日

元に戻ってほしくないことについて考える

「水圧のかかった水道管をふさいでいた手を離せば、水はまた元の勢いで噴出を始める。つまり、感染者がまたしても指数関数的に増え始めるわけだ。こうしてもっとも困難な第三の段階、忍耐の段階が始まる。」

「僕らは自然に対して自分たちの時間を押しつけることに慣れており、その逆は晴れていない。だから流行があと一週間で終息し、日常が戻ってくることを要求する。要求しながら、かくあれかしと願う。
 でも、感染症の流行に際しては、何を希望することが許され、何は許されないかを把握すべきだ。なぜなら、最善を望むことが必ずしも正しい希望の持ち方とは限らないからだ。」

「COVIC-19とともに起きているようなことは、今後ますます頻繁に発生するだろう。なぜなら新型ウィルスの流行はひとつの症状にすぎず、本当の感染は地球全体の生態系のレベルで起きているからだ。」

「今回の流行で僕たちは科学に失望した。確かな答えがほしかったのに、雑多な意見しか見つからなかったからだ。ただ僕らは忘れているが、実は科学とは昔からそういうものだ。いやむしろ、科学とはそれ以外のかたちではありえないもので、疑問は科学にとって真理に増して聖なるものなのだ。」

「今、戦争を語るのは、言ってみれば恣意的な言葉遊びを利用した詐欺だ。少なくとも僕らにとっては完全に新しい事態を、そう言われれば、こちらもよく知っているような気になってしまうほかのもののせいにして誤魔化そうとする詐欺の、新たな手口なのだ。」

「でも僕は忘れたくない。最初の数週間に、初期の一連の控えめな対策に対して、人々が口々に「頭は大丈夫か」と嘲(あざけ)り笑ったことを、長年にわたるあらゆる権威の剥奪により、さまざまな分野の専門家に対する脊髄反射的な不信が広まり、それがとうとうあの、「頭は大丈夫か」という短い言葉として顕現したのだった。不信は遅れを呼んだ。そして遅れは犠牲をもたらした。」

「もっとも可能性の高いシナリオは、条件付き日常と警戒が交互する日々だ。しかし、そんな暮らしもやがて終わりを迎える。そして復興が始まるだろう。
 支配階級は肩を叩きあって、お互い見事な対応ぶり、真面目な働きぶり、犠牲的行動を褒め讃えるだろう。自分が批判の的になりそうな危機が訪れると、権力者という輩(やから)はにわかに団結し、チームワークに目覚めるものだ。一方、僕らはきっとぼんやりしてしまって、とにかく一切をなかったことにしたがるに違いない。到来するのは闇夜のようなものであり、また忘却の始まりでもある。
 もしも、僕たちがあえて今から、元に戻ってほしくないことについて考えない限りは、そうなってしまうはずだ。」

--- パオロ・ジョルダーノ 『コロナの時代の僕ら (飯田亮介訳)』