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2021年10月16日土曜日

どうなるんだろう

威嚇するように「愛国」を叫ぶ人たち
ほんとうに自分の国を想えるのであれば
同じぐらい隣の国も大切に想えるはず
(「ヘイトスピーチ」から)

大事な年金が詐欺ファンドに投資されようが
国の借金が世界ダントツになろうが
電磁波づけにされようが
おバカな大臣が続出しようが
どうでもいいや の48%が
「打つ手なし」の原発事故を再発させて
今度こそ国を 世界を
滅亡させるかもしれないのに・・・
(「48%」から)

青森県六ケ所村再処理工場が
稼働し始めると
海や空に原発1年分の放射能を
1日で放出するだけでなく
そして
工場周辺で小児白血病が
多発するだけでなく
工場のコスト総額19兆円以上使って
長崎型原発1000発分のプルトニウムを
1年間で生産することになる
(「『六ケ所村再処理工場』を検索」から)

生物種の絶滅のスピードは
1万年前・・・100年で1種
1000年前・・・10年で1種
100年前・・・1年で1種
現在・・・1日で100種
この地球の悲鳴を
我がこととして考えられる
人間は
私たちの国では
1%もいない
(「1%」から)

 ‐‐‐  財津昌樹 「言いたいことをいってしまう。と、どうなるんだろう」

2021年10月11日月曜日

知らんがな

 意見を恐れる日本人がいる。無関心な人たちに気づかれることを恐れている。「民主主義」なんてかっこいいことを言っているが、「無関心主義」のおかげで成り立っている国だ。
 無関心とは「犠牲」を見ないことだ。誰かを下敷きにして、僕らはその上に座っているという現実に目を向けないから、僕は漫才を使い、そこに目を向けさせる。


 そもそも普段から政治や社会のことを話し、議論して、その意思表示として選挙に行くのに、普段からその話をタブーにして議論もせず、選挙なんかに行って、誰を選ぶというんだろう。ただの大人の証明くらいの感じで行っているだけだろうと思っている。
 大人なら選挙に関心を持て、投票に行け、と責任を求めるなら、同じように「在日朝鮮人に関心を持て、沖縄の辺野古に関心を持て、原発に関心を持て、僕たちの社会だぞ」と言える。


 お前が誰かを風景にするということは、お前を誰かに風景にされるということだ。風景にしていいということは、自分の悲劇も風景にされるということになる。
 風景にしていいというルールは、すべてが自己責任になる。「知らんがな、お前のことだろう」は、お前が困っているときも「知らんがな、お前のことだろう」になる。


--- 村本大輔 「おれは無関心なあなたを傷つけたい」


2021年3月7日日曜日

責任

 自ら考えて決めた時にだけ、自分のしたことに責任をとることができる。だから自ら考えていないということは、自分で決めていないということであり、そうであれば、やったことの責任は、本来とれないはずである。にもかかわらず、成績や入試の結果に関しては、生徒が責任を負わされる。「君の努力が足りなかった」とか「君は運が悪い」とか「頭が悪い」とか。そして挙句の果てに「自己責任」と言われたりする。


高齢者自身の生き方が重要なら、当事者である彼ら自身が何をどうしたいのかを考え、発言する自由が与えられなければならず、また彼らはその自由を行使しなければならない。そうでなければ、学校教育と同じく、自分で自分の人生の帰結に責任をとることなどできない。


地元住民が当事者として地域をどうするのかを考えなければならないはずなのに、それを国や自治体、もしくはどこかの企業が代わって考え、決めてきた。
 何か問題が起きたら、住民は行政や企業を非難するが、彼らが責任をとることはない。当たり前である。それは彼らの人生でないからだ。他方、当事者である住民は、自分たちで考えも決めもしなかったから、責任がとれない。それなのにその結果は引き受けるしかない。何とも理不尽なことではないか。
 私たちは、自分の生き方に関わることを誰かに委ねるべきではない。また誰かに代わって考えて決めてあげることもやめなければならない。人間は自ら考えて決めたことしか責任はとれないし、自分の人生には自分しか責任はとれないのだ。


---  梶谷真司 「考えるとはどういうことか」



2021年3月1日月曜日

自然との共生

樹種の多様性、個体の多様性、つまり多様な個性を一顧(いっこ)だにせず、皆同じ規格で同じ塗装で、機械でササッと作ろうとする。そうしたものは、なぜか”早く飽きる”。愛着が湧かないまま、捨ててしまったことさえ覚えていない。多分、木が育った情景も知らなければ、誰がどのように作ったのかもわからないからだろう。

本来、山間地周辺の森林はそこに住む人たちの環境を守り、地域の経済を支えるためにある。燃料会社、発電会社のため、街での快適な生活のため、地球温暖化の元凶ともなる放逸(ほういつ)な消費生活のツケを払うために里山があるのではない。里山の仕組みを知り、作業のキツさを知る山間部に住む人のためにあるのだ。

クマが人里に下りてくるのは、山に食べ物が少ないためだけでなく、何よりも山里の活力が低下し人間が怖くなくなったためである。林業や林産業が活発になり山間地に多くの若者が住み、藪を畑にし犬が吠えれば、クマは怖くて自ずと山に逃げ帰るであろう。帰る場所に餌があるように太い木を残すのである。それでも、里に下りてくるようなら喰うしかない。人もクマもそれぞれの生活場所でお互いに元気でいれば良いのである。

自然との共生を唱える人たちは、街に住みマンションに住む。都会の中心に住み、「自然を大事に」「クマを守れ」と叫ぶ。本来、自然との共生は手間のかかることなのである。森のそばで動物たちと縄張り争いをしないとわからないことが多いのである。

よく街路に並んで植えられている。しかし、伸びすぎて邪魔になるせいか、樹冠の上のほうを半分ほど切り落とされ、枝も切り詰められている姿をよく見かける。メタセコイアらしさが台無しである。本来はとても堂々とした樹であるのに、なぜ、計画性をもたいのだろう。木への情愛が感じられない風景はなにか寂しい。

東北大学農学部の食堂前には立派なメタセコイアの並木がある。しかし農学部は移転した。いずれ、木々は伐られ、整地され、そこに新しい建物が建ち、また、小さな苗木が植えられるだろう。こんなことばかり繰り返すので、いつになっても日本には落ち着いた景色が見られない。

巨大になるスズカケノキ(プラタナス)は冬には枝も先端も切り詰められ、痛々しい姿を見せている。そんなことするをくらいなら、あまり大きくならない在来の樹種を植えたほうが良い。

――― 清和研二 有賀恵一 『樹と暮らす』


2021年2月27日土曜日

決して短くない時間

 それにしても、これらの巨木は伐られてどこにいったのだろう。巨大な建築物になったのだろうか。無垢材の家具や建具として各地の家庭で大事に使われているのだろうか。そんなことはない。海外では重厚な家具になったが、国内ではベニヤや薄い突き板になり消えてしまった。雄大な立ち姿を見せていた巨木たちはわずかにその痕跡を留めるだけだ。先祖から引き継ぎ次世代に残すべき大事な遺産を我々は失ったのである。


伐採を専門にする業者の話を聞いたことがある。「トチノキの巨木はなんぼでもある。伐ってもすぐに大きくなるのでなくなる心配はない」。数十年前のことではない。数年前のことである。この業界には依然根深い無知がある。森の中で巨木と言われるまでに育つには人の寿命の何倍もの時間を要すること、そしてそれはきわめて稀なことだということを知らねばならない。


森のてっぺんに顔を出せたのは、そして花を咲かせるまでに大きくなれたのはどれくらいなのだろう。
親木から飛び立った種子の、何十万分の一、何百万分の一だ。
さらに人間の世代を幾つも幾つも超えて生き延び、老熟していく。
奥地に立つ巨木は奇跡なのである。
想像を超える時間を生き、樹々のいのちは繋がっていく。

--- 清和研二・有賀恵一 『樹と暮らす』から


2021年2月1日月曜日

ブナに聴く

どこを見回しても、ブナで作ったものは今の日本にはほとんど残されていない。東北ではりんご箱、子供たちの机や椅子が作られた。飛騨ではデザイン性の高い椅子が作られヨーロッパに売られた。しかし、日本のどこにブナの家具や建具などが残っているのだろう。巨木の森は伐られてどこにいったというのだろう。山には細い木や形質の悪い木が残され、更新しにくいところはササがはびこってしまった。雨後のタケノコのように現れた林産業者は一瞬儲けて皆撤退した。あまりにも目先の利益にとらわれた林業と林産業が合体した歴史をそこに見ることができる。


雪国の人たちは炭を長く焼き続けるために「あがりこ」という仕組みを編み出したのだろう。ブナを絶えず伐り続ける林業はその後の皆伐に取って代わった。それを行ったのは2年で転勤するよそから来た役人たちであった。


田んぼの水はブナ林からくる。山形の人は昔から知っていた。農家では12月12日に山の神を祀(まつ)り、穀物の豊穣を祈った。”出羽三山”があり”草木塔”が立つ。樹の命を敬(うやま)う土地柄だ。だから、むやみに木々を伐ることはなかったのだろう。その証拠に山形県の針葉樹人工林率は造林適地の少ない沖縄、急峻(きゅうしゅん)な山岳を抱える富山・新潟に次いで四番目に低い。実質は一番低い地域かもしれない。だから、今でも豊かできれいな水で溢れている。

 ーーー 清和研二 『樹に聴く』


2020年12月28日月曜日

社会への適応

 たとえば大学受験では、多くの場合、受験勉強で得た知識はその後の大学生活や社会生活で役に立たない。しかし「どの大学に入るかで人生が決まる」と認識されるため、受験生はそれを了解していながら、多くのエネルギーを受験勉強に投入する。大学に入学した若者がその後情熱を傾けるのは、次なるエントリー競争としての「就職活動」である。


企業の人材選好は、年齢・性別という属性と「現役の学生である」という学校への所属に基づいて規定されていた。個々の若者が仕事に役立つ知識を持っているかは問われず、「○○校出身」というタグを付けた「白紙」状態の若年男性こそが求められた。


「メンバーシップ主義」は結果的に、子ども・若者にとっての「社会」なるものを、学校と企業の複合体に狭く限定していったといえる。普遍的な技能・資格基準が存在しない以上、「社会のなかの自己の位置」は、所属する組織を通じてしか、明かすことができない。そして組織への所属は、高い同質性を持つ中間集団における競争と協調への参入を通じてなされる。そこでは、日常的に身を置く具体的な場である「クラス」や「職場」への順応こそが、「社会への適応」と見なされていく。


欧米では、学校からのドロップアウトは主に低学歴の貧しい子ども・若者に見られる一般的な逸脱(いつだつ)形態であり、他方、フリースクールやホームエディションといったオルタナティブ教育は、独自の価値観に基づいて子どもを教育したい比較的階層の高い親たちが選ぶ「もうひとつの学校」である。この二つは別個の事態であり、「社会の問い直し」として土台を共有することは直接的には起こらない。


「平成」以降、キャリアに関する予測可能性は失われ、不確実性が増大するなか、多くの子ども・若者がスムーズな移行から漏れ落ちようになった。にもかかわらず、いまだに新卒学卒採用は「真っ当な就職先」を得るためのほとんど唯一のルートであり、それ以外のルートは「いばらの道」であり、実質的に個々の努力、才能、ネットワーク、運などに任されている。

ーーー 貴戸理恵 「平成史(小熊英二) 教育」から

先進国

 日本は、もはや「原料を輸入して加工貿易をするアジアの工業国」というよりも、「アジアで作られた工業製品を輸入し消費する先進国」に変化しつつある。その現状認識を欠いた「輸出産業重視・貿易立国」という日本像にもとづいた政策は、一部産業への政策的優遇としてしか機能しない恐れがあった。一部の経済学者は、金融緩和で国内需要が伸びれば景気は回復すると説くが、国内需要が伸びても国内生産が伸びずに需要が海外製品にむかえば、むしろ貿易赤字を拡大することになる。

ーーー 小熊英二 「平成史」から

ストロー効果

 自給自足でやっていける地域からは、移民は出てこない。それが出てくるのは、現地の「生活基盤の喪失(uprooting)」がおきたあとである。つまり、発展途上地域の近代化が進み、教育が普及して、第一次産業ではやっていけない状況が発生した方が、移民は流出しやすくなる。つまり、工業化したほうが労働力移動が発生しやすい。という逆説が生まれる。


公共事業で整備された交通網は、人口や産業の都市への「吸い上げ」をもたらす「ストロー効果」を生んだ。
(略)
土建事業が行なわれれば行われるほど、都市への移動が進む。

ーーー 小熊英二 「平成史」から

工業化時代の想像力

 いまなら、携帯電話で知らせるところだ。ここに描かれている未来像は、移動技術が大幅に進歩しているのに、情報通信技術がまったく変わっていない世界である。『未来少年コナン』に描かれている「インダストリア」では、巨大爆撃機、ロボット、原子力をエネルギー源とする金属製の巨大ビルティングなどがあり、宇宙服のようなユニホームに身を固めた人びとがいる。しかし情報通信技術のほうは、マイクを握って話す卓上式の大型無線装置なのだ。

ーーー 小熊英二 「平成史」から


2020年11月7日土曜日

長いもの

 「人は弱いから群れるのではない。群れるから弱いのだ」(竹中労)

「多くの記者が長いものに巻かれ、戦争報道に突き進むなか、闘い続けた桐生悠々(きりゅうゆうゆう)。今の記者にその覚悟はあるのか」(佐高)

ーーー 望月衣塑子 佐高信 『なぜ日本のジャーナリズムは崩壊したか』

官主主義国家

 現在の日本は「民主主義国家」ではなく「官主主義国家」だと思っています。大臣としてその上に立つ政治家が愚かであればあるほど官主主義は進行し、深化します。(佐高)

あいつらの言い方で私が腹が立つのは、「誤解を招いた」というやつね。誤解したほうが悪いような言い方をする。ふざけんな、誤解じゃなくて正解して怒っているんだよ、と。(望月)

そのことと(総務省 高市早苗の電波停止発言)や安保法制報道について池上に迫った。そうしたら彼は、「反省ということを言って説明をしたら、色がついた答えになるでしょう」
と言うんだ。
でも、それはおかしい。
彼は自分でも、解説が自分の役割だというんだけど、偏らないこと、誰かの側に立たないことは、結局、いまある権力の側に立つことになるんだな。その根本的な力学を彼は理解していない。(佐高)

相手の懐まで深く入り込む取材は、時にスクープや深い解説記事を書くためには必要だ。しかし、権力の内側を描けないようではただのなれ合いにしか見られない。(望月)

ーーー 望月衣塑子 佐高信 『なぜ日本のジャーナリズムは崩壊したか』




2020年10月7日水曜日

世渡り

買えば買うほど景気が良くなるのだから買い物しましょう、と呼びかけるが、どう考えてもそれはおかしい。景気が良くなる人もいるかも知れないが、買い物した本人の財布からはお金がなくなる。それに乗ってはいけない。だからまず、私たちがやらねばならないのは、世間に惑わされる弱い自分を救うことだ。自分を救う道は「始末」と「才覚」である。極めて簡潔(かんけつ)なのだ。

「生の鯛でも干した鯛でも塩鯛でも、祝う心は同じ」「今日の腹も、普段の腹も、腹は同じ」と諭(さと)すところである。「祝う心」さえあれば金を使う必要はない、という意味だ。


 人を使うとは、実は人を育てることなのだ、ということがわかってくる。人を雇うとは、金を払って自分のしたくないことをやらせることではない。一人前の人間をたくさん作る、いわば社会のための仕事が、仕事の重要な側面なのである。


--- 田中優子 『世渡り万の智慧袋』


2020年9月25日金曜日

社会の土台

 マルクスは経済が社会の土台であると考えるが、私は人間が土台だと考える。経済は人間という土台の上に建てられた上部構造にすぎない。それ故、将来の社会を予測する場合、まず土台の人間が予想時点までの間にどのように量的、質的に変化するかを考え、予想時点での人口を土台としてどのような上部構造 - 私の考えでは経済も上部構造の一つである - が構築できるかを考えるべきである。

戦後教育では子供は個人主義的、成績主義的、普遍主義的(縁故者を優遇したり裏で手を回したりしない)、平等主義的であるように教育されている。日本の大人の社会は頑強に集団主義、家柄主義、縁故主義、集団差別主義を固執している。敗戦によって極めて非日本的な教育を押しつけられた結果、日本人はその教育を元に戻す保守的勇気も、大人の社会を新教育に見合うようなものに改変する進歩的勇気も持っていなかった。こうして日本人は、子供時代と大人時代を分裂したままに生きる生活を続けて来たのである。

日本の経営者や労働者には次のような短所 - それはかつて長所として称賛されたものだが - がある。経営者はXをしたいと思っても、自分でXをするとは言い出さない。下、すなわち労働者の方からXをしてくれと言い出すことを待っているのである。他方労働者はXをして欲しいと思っていても自分からは言い出さない。経営者がXをしろというのを待っているのである。

 --- 森嶋通夫 『なぜ日本は没落するか』

2020年9月17日木曜日

スクラップによる再生のための運動

 民衆による再建の運動は、人間が生み出したおびただしい混乱から逃れることはできないという前提から出発する。歴史、文化そして記憶まで、これまでこれまで消されてきたものはもう十分すぎるほどある。この再生のための運動は、白紙(スクラッチ)からではなく、残り物(スクラップ)- つまり、瓦礫や廃品など周りにいくらでも転がっているものから始めようという試みだ。コーポラティズムによる改革運動が衰退の一途をたどりつつ、行く手に立ちふさがる抵抗勢力を撃退するためにショックのレベルをさらに強めていくなか、これらの運動は原理主義の合間を縫って前へ前へと進んで行く。地域社会に根を張り、ひたすら実質的な改革に取り組むという意味においてのみ急進的(ラディカル)なこれらの人々は、自らを単なる修繕屋とみなし、手に入るものを使って地域社会を手直しし、強化し、平等で住みやすい場所へと作り変えている。そして何にも増して、自らの回復力の増強を図っている。

   --- ナオミ・クライン 『ショック・ドクトリン』 から


2020年9月1日火曜日

デマゴーグ

彼女が優先したのは演説の内容ではなく、自分のビジュアル・イメージだった。何を言うかではなく、何を着るか、どんな髪型にするか、それが人の心を左右するという考えは母の教えであり、テレビ界で竹村健一から学んだことでもあった。

「小池さんには別に政治家として、やりたいことはなくて、ただ政治家がやりたいんだと思う。そのためにはどうしたらいいかを一番に考えている。だから常に権力者と組む。よく計算高いと批判されるけれど、計算というより天性のカンで動くんだと思う。それが、したたか、と人には映るけれど、周りになんと言われようと彼女は上り詰めようとする。そういう生き方が嫌いじゃないんでしょう。無理をしているわけじゃないから息切れしないんだと思う。」(池坊保子)

激しい野心と上昇志向を持ち、年上の有力者の懐に飛び込む。論文には盗作の噂がつきまとう。彼(竹中平蔵)もまた、小池同様、学歴、留学経験、英語力を武器にして蜘蛛の糸を必死で摑(つか)み、のぼっていった人である。

「目立つことが好き、思い付きで発言するが体系的、持続的な思考力はない。何が世間に受けるかだけを考えて行動する、大衆を熱狂させる独特の魅力があり、また、そのテクニックに長けているー。それは、そのまま小池にも当てはまる。」(佐野眞一『誰も書けなかった石原慎太郎』から)

自分がどう見られるかを過度に意識した表情のつくり方、話し方、決めゼリフの用意。彼(小泉進次郎)は自分の魅力の振りまき方を知っていた。ルックスと声質の良さ、ゴロ合わせのような言葉づかい。ダジャレで人の気持ちを掴(つか)む。彼もまた、「小池百合子」だった。

「デマゴーグ(注・大衆煽動(せんどう)者型政治家)の態度は本筋に即していないから、本物の権力の代わりに権力の派手な外観(シャイン)を求め、またその態度が無責任だから、内容的な目的をなに一つ持たず、ただ権力のために権力を享受することになりやすい。権力は一切の政治の不可避的な手段であり、従ってまた、一切の政治の原動力であるが、というよりむしろ、権力がまさにそういうものであるからこそ、権力を笠に着た成り上がり者の大言壮語や、権力に溺れたナルシズム、ようするに純粋な権力崇拝ほど、政治の力を堕落させ歪めるものはない」(マックス・ウェーバー著 脇圭平 訳 『職業としての政治』

---  石井妙子 『女帝 小池百合子』から

2020年8月15日土曜日

回避不可能

起きうる問題がN個あれば、それぞれの問題が「起きる/起きない」の二つの場合しかないとしても、その組み合わせは二のN乗である。Nが少しでも大きくなると、その値は爆発する。起きうる問題が50個あればその組み合わせは、2の50乗、すなわち

1,125,899,906,842,620 通り

である。これはどういう数かというと、不眠不休で1秒間に一つ数えるとして、数え上げるだけで3570万年以上かかる。それらのすべてに事前に練り上げた計画を立てるためには、地球誕生の瞬間から現在までやってもまだ間に合わない。このような計算量の問題は回避不可能である。その上、事態1の起きる確率と事態2の起きる確率が独立であるという保証はどこにもない。事態1が起きたら事態2の起きる確率が上がるというケースが往々にしてある。落ちるはずのないロケットが落ち、起きるはずのない原発事故が起きる理由はここにある。もともと不安定で制御困難な社会へのはたらきかけに同じアプローチを適用するのは無謀である。

--- 安冨歩 「複雑さを生きる やわらかな制御」

少数の理性を持つ者が社会を制御しうるという理論は原理的に間違っている。このような意味の理性などというものはそもそもありえない。理性を活用してものごとを深く観察し、理解しようとしても、無限の多様性を持つものを有限の記述によって処理することはできない。たとえうまい記述に到着したとしても、そこに非線形性が介在しておれば、適切な近似を得るために初期値を無限精度で設定する必要が生じる。無限精度で初期値を設定するとは、軌道を無限の先まで知っていることと等価である。つまり、あらかじめすべてのことがわかっていれば予測できる、という無意味なことになる。それ以外にも計算量爆発という問題がある。ある事態が「ある」か「ない」かであるという単純な場合を想定してさえ、N個の要素が関与しておれば、可能な組合せは2のN乗になる、というあの回避不可能な罠である。

--- 安冨歩 「複雑さを生きる やわらかな制御」

2020年7月23日木曜日

現実

NHKスペシャル「戦慄(せんりつ)の記録 インパール」(2017年8月15日放送)では、新たに発見された膨大な機密資料を基に、その真相に迫っていた。
 曖昧な意思決定と、組織内の人間関係が優先され、無謀な作戦は発令された。兵士は三週間分の食料しか持たされず、行軍中に攻撃を受け多くの死傷者を出すも、大本営は作戦継続に固執した。イギリス軍の戦力を軽視し、自軍の補給物資の確保をせず、当初三週間で攻略するはずが戦闘は四ヶ月に及んだ。そして、インパールには誰一人として巡り着けず、約三万人が命を落とした。このうち約六割は作戦中止後に命を落としたという。(田崎基)

日本軍が負け始めてからの戦争指導と重なって見える。場当たり的な弥縫策(びぼうさく)で「負けている現実」から多くの人の目を逸らそうとする。長期戦を戦うには、人的損害を減らす努力をせねばならないのに、人的損害を増やす玉砕や特攻を過剰に美化礼賛(びからいさん)する。(山崎雅弘)

苦しんでいるのは一部の誰かではなく、多くの人だという認識を持つ必要がある。
(略)
 年収300万円以下が全体の約32%を占める現実を踏まえると、日々の生活は相当厳しいにもかかわらず、中間層で踏ん張っているのだと信じてたい人が大勢いるということだ。(井手英策)


前世紀の敗戦末期にこの国は、現実には負けているのにもかかわらず「勝っている!」と宣伝し、国民に貧しさを強いている現実を覆い隠すため「欲しがりません!勝つまでは」という標語を掲げ、黙らせた。物資や食糧の補給の見通しも立たないのに戦線を拡大し続け、進軍した部隊が全滅したときには「玉砕」という言葉を使い美化していった。「玉砕」とは玉が美しく砕けることを意味する。(田崎基)


---田崎基 『令和日本の敗戦』から

権利

国民が権利は天から付与される、義務は果たさなくていいと思ってしまうような天賦人権論(てんぷじんけんろん)をとるのは止めよう、というのが私たちの基本的な考えです。国があなたに何をしてくれるのか、ではなくて国を維持するには自分に何ができるのか、を皆が考えるような前文にしました。(片山さつき)


沖縄だけ、戦争が終わっていないかのようだと思いませんか。私はそう思いますよ。もう終わらせたい。基地は要らない。私たちはそうした民度を何度も示してきました。
 今に続くつらい歴史を沖縄は背負っています。だからこそ、私たちには平和に生きる権利があると思う。米軍基地も自衛隊の基地も要らない。力で、武力で、何かをしようとすれば、必ず力で反発を受ける。基地があるから攻撃されて戦争になる。そのことを沖縄は骨身に沁みて知っている。だからこそ「基地は要らない」と言い続けなければいけない。(阿波根數男 あわごん かずお)

 そもそも権利概念は、個人のエゴイズムを認め、それが衝突することを前提に存在している。だが、エゴイズムは存在したにという前提に立つと、権利の観念も必要なくなってそまう。
 したがって、すべての日本人は潜在的に無権利状態にあるのだろう。だから、誰かが「私の権利を回復せよ」などと言い出すと、その人があたかも不当な特権を要求しているかのように錯覚される。そして主張した人が袋叩きに遭う。
 この状況は、明治時代に生まれた「家族国家観」という国体イデオロギーがいかに強力で長命かを物語っている。ここの、米国を媒介として国体の構造が生き延びたことの深刻さが浮かび上がる。(白井聡)

「そげん恥ずかしかもん、うちは一銭ももろうとらん。そんかもん、もろうとったら、あんたが恥かこうが!絶対そげんかことよそ様に言いなさんな!」
 僕は怖くて泣いた。いま思えば、これは暴言だ。生活保護は権利なんだから、堂々と使えばいい。だが、あのように言い放った、母の、日本人のメンタリティは理解できる。(井手英策)

「表現の自由」とはそもそも権力と対峙関係において最も発揮される権利である。したがって、権力への批判、批評、その前提となる権力の監視こそが、報道が担うべき最重要課題である。言葉を言い換えてごまかし、現実を捩じ曲げている権力者がのさばっているのであれば「嘘をついている」と指弾しなければならない。 (田崎基)

---田崎基 『令和日本の敗戦』から

根っこは同じ

沖縄の問題、福島の問題、東京の新大久保や大阪で行われている在日韓国朝鮮人を差別する排除の動き。他にも大きな問題が身の回りでごろごろしている。それでも「知らない、聞かない、関係ない」で済ますことを続けていれば、回り回って必ず自分に降りかかってくる。
(略)
こんな状況で「政治的、社会的な問題に首を突っ込まない」なんてことを言っていると、間違いなく自分にどんどん突き付けられる。軍事費が突出すれば必ず別のところが削られる。年金支給年齢が75歳に引き上げられるかもしれない。医療費の窓口負担も天井知らずで上がっていくかもしれない。そんなことになったら、人は人としてまっとうに暮らせなくなるだろう。ここ辺野古で起きていることと、根っこは同じなんだよ。(山城博治)

--- 田崎基 『令和日本の敗戦』から