2021年3月7日日曜日

責任

 自ら考えて決めた時にだけ、自分のしたことに責任をとることができる。だから自ら考えていないということは、自分で決めていないということであり、そうであれば、やったことの責任は、本来とれないはずである。にもかかわらず、成績や入試の結果に関しては、生徒が責任を負わされる。「君の努力が足りなかった」とか「君は運が悪い」とか「頭が悪い」とか。そして挙句の果てに「自己責任」と言われたりする。


高齢者自身の生き方が重要なら、当事者である彼ら自身が何をどうしたいのかを考え、発言する自由が与えられなければならず、また彼らはその自由を行使しなければならない。そうでなければ、学校教育と同じく、自分で自分の人生の帰結に責任をとることなどできない。


地元住民が当事者として地域をどうするのかを考えなければならないはずなのに、それを国や自治体、もしくはどこかの企業が代わって考え、決めてきた。
 何か問題が起きたら、住民は行政や企業を非難するが、彼らが責任をとることはない。当たり前である。それは彼らの人生でないからだ。他方、当事者である住民は、自分たちで考えも決めもしなかったから、責任がとれない。それなのにその結果は引き受けるしかない。何とも理不尽なことではないか。
 私たちは、自分の生き方に関わることを誰かに委ねるべきではない。また誰かに代わって考えて決めてあげることもやめなければならない。人間は自ら考えて決めたことしか責任はとれないし、自分の人生には自分しか責任はとれないのだ。


---  梶谷真司 「考えるとはどういうことか」



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