2021年3月7日日曜日

責任

 自ら考えて決めた時にだけ、自分のしたことに責任をとることができる。だから自ら考えていないということは、自分で決めていないということであり、そうであれば、やったことの責任は、本来とれないはずである。にもかかわらず、成績や入試の結果に関しては、生徒が責任を負わされる。「君の努力が足りなかった」とか「君は運が悪い」とか「頭が悪い」とか。そして挙句の果てに「自己責任」と言われたりする。


高齢者自身の生き方が重要なら、当事者である彼ら自身が何をどうしたいのかを考え、発言する自由が与えられなければならず、また彼らはその自由を行使しなければならない。そうでなければ、学校教育と同じく、自分で自分の人生の帰結に責任をとることなどできない。


地元住民が当事者として地域をどうするのかを考えなければならないはずなのに、それを国や自治体、もしくはどこかの企業が代わって考え、決めてきた。
 何か問題が起きたら、住民は行政や企業を非難するが、彼らが責任をとることはない。当たり前である。それは彼らの人生でないからだ。他方、当事者である住民は、自分たちで考えも決めもしなかったから、責任がとれない。それなのにその結果は引き受けるしかない。何とも理不尽なことではないか。
 私たちは、自分の生き方に関わることを誰かに委ねるべきではない。また誰かに代わって考えて決めてあげることもやめなければならない。人間は自ら考えて決めたことしか責任はとれないし、自分の人生には自分しか責任はとれないのだ。


---  梶谷真司 「考えるとはどういうことか」



2021年3月1日月曜日

自然との共生

樹種の多様性、個体の多様性、つまり多様な個性を一顧(いっこ)だにせず、皆同じ規格で同じ塗装で、機械でササッと作ろうとする。そうしたものは、なぜか”早く飽きる”。愛着が湧かないまま、捨ててしまったことさえ覚えていない。多分、木が育った情景も知らなければ、誰がどのように作ったのかもわからないからだろう。

本来、山間地周辺の森林はそこに住む人たちの環境を守り、地域の経済を支えるためにある。燃料会社、発電会社のため、街での快適な生活のため、地球温暖化の元凶ともなる放逸(ほういつ)な消費生活のツケを払うために里山があるのではない。里山の仕組みを知り、作業のキツさを知る山間部に住む人のためにあるのだ。

クマが人里に下りてくるのは、山に食べ物が少ないためだけでなく、何よりも山里の活力が低下し人間が怖くなくなったためである。林業や林産業が活発になり山間地に多くの若者が住み、藪を畑にし犬が吠えれば、クマは怖くて自ずと山に逃げ帰るであろう。帰る場所に餌があるように太い木を残すのである。それでも、里に下りてくるようなら喰うしかない。人もクマもそれぞれの生活場所でお互いに元気でいれば良いのである。

自然との共生を唱える人たちは、街に住みマンションに住む。都会の中心に住み、「自然を大事に」「クマを守れ」と叫ぶ。本来、自然との共生は手間のかかることなのである。森のそばで動物たちと縄張り争いをしないとわからないことが多いのである。

よく街路に並んで植えられている。しかし、伸びすぎて邪魔になるせいか、樹冠の上のほうを半分ほど切り落とされ、枝も切り詰められている姿をよく見かける。メタセコイアらしさが台無しである。本来はとても堂々とした樹であるのに、なぜ、計画性をもたいのだろう。木への情愛が感じられない風景はなにか寂しい。

東北大学農学部の食堂前には立派なメタセコイアの並木がある。しかし農学部は移転した。いずれ、木々は伐られ、整地され、そこに新しい建物が建ち、また、小さな苗木が植えられるだろう。こんなことばかり繰り返すので、いつになっても日本には落ち着いた景色が見られない。

巨大になるスズカケノキ(プラタナス)は冬には枝も先端も切り詰められ、痛々しい姿を見せている。そんなことするをくらいなら、あまり大きくならない在来の樹種を植えたほうが良い。

――― 清和研二 有賀恵一 『樹と暮らす』