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2024年1月5日金曜日

この国ですくすく育ち続けているやつ

 「俺は国がやることに反対したりしない。だから国が俺を守るのはわかるけど、国のやることに反対している奴らの人権をなぜ国が守らなければならない?」とも続けた。この感じ、日本でずっとすくすく育ち続けているやつだ。

---  武田砂鉄 なんかいやな感じ 2023年9月26日



2022年10月9日日曜日

後になってからわかる

 声の大きい人が入り込んできて、「いつまでそんなことをやっているんだ。こっちも問題だろ」と比較を始める。比較をする人は、Aも問題だがBも問題だろうと突っ込んでくるのだが、だったら両方とも問題にすればいいのに、あら不思議、そのどっちらも問題にせず、ただAを消すためだけにBを使ったのだと、後になってからわかるのだ。

(#武田砂鉄 #今日拾った言葉たち #2022・9・17)

2022年6月16日木曜日

私は私

 私たちは、「私は私」的なことをスローガンのように使う人を見かけると多くの人は「芯が強い」などと思うわけだが、実は、他者がどうであるかを気にしまくっているからこそ「私は私」と発するわけである。黒柳徹子はリアルに「私は私」だから、そんなことを口にしない。苦言も呈さない。周囲を気にしないから、ブレようがない。黒柳徹子は、「個性とは何か」「自分らしさとは何か」という問いかけ自体が、個性や自分らしさを遠ざけることを教えてくれる。 

ーーー  武田砂鉄 「芸能人寛容論」

2022年3月18日金曜日

スピード感

 「何かを言うことは最後通告のように行ない、実はそれが話のはじまりであることに気がつかないことが多いのではないだろうか。黙っているのではなく、もし、ものを言いはじめたのなら、そこから困難な話合いを続行してゆく覚悟が必要と思われる」(河合隼雄「こころの処方箋」)

「○○という意見も出ています」をやる限りでは、そうですか、そういう意見も出ていますか、で逃げられてしまう。なぜならば、その意見を発したのはアナタではないからだ。池上(彰)に「私はこう思う」だけを語ってほしいと思う。接続詞が沢山あってもいい。こちらにわかりやすく伝わらなくても構わない。それなりに難しくたって、こちらはこちらでそれを読み解こうと踏ん張るのだから、あまりこちらの理解を軽視しないでほしいとも思う。

「感」といえば、「スピード感」という言葉も連呼され、それは一向に、「スピード」が出ていない証左にもなった。「風を切りながら疾走しています」と「風を切るような勢いで疾走している感じ」では、天と地の差がある。なにせ、後者は疾走しちゃいないのだ。日本はこっちだった。

--- 武田砂鉄 『分かりやすさの罪』 2020/07/30

2022年1月16日日曜日

ドリンクバーで議論

酒飲みや嫌煙は思想とすぐに結びつくけど、下戸(げこ)は思想とは全く関係がない。健康問題でさえない。健康のために酒をやめる人はいるけど、下戸はそもそも何もやめていないのだ。部外者と言っていいい。


長渕剛「乾杯」の歌詞を読み返すと、なにで乾杯すべきかは一切書いていない。実は、酒を匂わす単語は皆無なのである。「遥か長い道のりを 歩き始めた 君に幸せあれ!」。この丁寧なメッセ-ジは「とりあえず乾杯しちゃいますか」という心性とは異なる。今そこで泥酔いしている上司はそういうことを言えない。泥酔する上司は、長い道のりを歩き始めた誰かの後姿を見つけても「幸せあれ」と送り出せずに「おい、こっち向け」とか言う。注ぐように強いる。いつまでも何かを強いる。

男の円熟味とは、決してバーのカウンターでは生まれないのだ。


(武田砂鉄『コンプレックス文化論』から)

2020年6月21日日曜日

多数派

会社という組織が回り続けるのは、目立ちすぎる誰かが突出した成果を作り出すからでも、目立たなすぎる誰かがそれなりに目立ち始めるからでもない。目立つでもなく、目立たなすぎるでもなく、淡々と仕事をこなす人たち、つまり居酒屋でのみ愚痴り続ける人たちが多数派であるからなのだ。
---  武田砂鉄 『芸能人寛容論』

2020年6月3日水曜日

問題点の忘却

思い出すべきだ。私たちの多くは五輪に反対していた。そうやって当初は批判的であったにもかかわらず、せっかくの機会だから、考えを改めてしまう。しかしそれは、問題点をいかにして忘却させるかを画策する人たちの思惑通りである。
  ---- 武田砂鉄 「日本の気配」から

2018年9月2日日曜日

本物っぽければ

画一化するロードサイドの風景は「柴崎コウ」的である。本物っぽければ、本物でなくてもヨシ。本来求められているのは「柴咲コウ」なのにみんなが「柴崎コウ」でヨシとしているから、「柴崎コウ」のまま街づくりを進めてしまう。個性に欠ける店の並びが、本物ではない気配を許しながら多量に配置されていく。「これで良かったんだっけ?」と誰に確かめるでもなくコピペが続く。新たに街づくりが提唱される時、その路肩に「もう片方の軍手」が転がっている可能性に目をやることができるかできないか。画一化から逃れる方法はやっぱりそこにある。

--- 武田砂鉄 『紋切型社会』から