2020年6月21日日曜日

多数派

会社という組織が回り続けるのは、目立ちすぎる誰かが突出した成果を作り出すからでも、目立たなすぎる誰かがそれなりに目立ち始めるからでもない。目立つでもなく、目立たなすぎるでもなく、淡々と仕事をこなす人たち、つまり居酒屋でのみ愚痴り続ける人たちが多数派であるからなのだ。
---  武田砂鉄 『芸能人寛容論』

2020年6月14日日曜日

反体罰

体罰は、人格権を有し、生まれながらに有する人権を保障されるべき子どもたちに対し、その個性に応じた健(すこ)やかな成長を励まし、促(うなが)すという教育の理念とは、根本からして相容れないものである。そもそも弱い立場の者に対して圧倒的優位な立場にある者が、「相手から絶対的に仕返しされることがない」という安心感に守られた上で一方的に暴力を行使するという事態は、明らかにフェアプレーの精神に反しており、スポーツマンシップの名に値するものではない。


さしたる疑問もないまま行われる通常の生徒指導のあり方がある種の子どもたちを孤立させ、あるいは集団化させて、いじめられっ子やいじめ集団をつくり上げていることは、まぎれもない事実です。
 教師がいじめの大きな原因となっているというこの厳粛な事実を直視することなしに、今日のいじめ問題を解決することはけっしてできません。とりわけ、学級全体に対する指導が必要なほどのいじめ問題が発生したときは、教師たるもの、まずはおのれが要因として当該いじめの発生にどのようなかかわりを持っているのかを虚心に内省し、反省してみなければなりません。そして、生徒に対する姿勢や態度を根本から変えていかなければならないのです。

 
「いじめられる方にも原因がある」と考えている教師は少なくない。教師にいじめの相談をした際に、「原因は何だと思う?」「嫌われるようなことをした?」と平気で返すのである。この対応には、「理由もなくいじめを受けるはずがない。だから、お前が悪いんだ」というメッセージが込められている。
(略)
かくして、生徒の不登校も、いじめも、対教師暴力も、非行も、すべては生徒個人の責任にされるのであって、学校や教師が内省する機会が訪れることはないのだ。

---- 南部さおり 『反体罰宣言』

2020年6月3日水曜日

問題点の忘却

思い出すべきだ。私たちの多くは五輪に反対していた。そうやって当初は批判的であったにもかかわらず、せっかくの機会だから、考えを改めてしまう。しかしそれは、問題点をいかにして忘却させるかを画策する人たちの思惑通りである。
  ---- 武田砂鉄 「日本の気配」から