2021年11月30日火曜日

組織体の利益と個人の利益

 欧米社会では、民主とか個人とかいう考え方は二千五百年かかってなし遂げられました。それを戦後の五十年間に短縮してなし遂げることは不可能でしょう。

役人の世界はやくざ、アメリカで言えばマフィアですが、彼らが住んでいる世界とよく似ています。縄張りを広げることが出世につながるからです。

官僚にとって天下りは自分たちの権限を維持するためにも必要不可欠です。
彼らがいる限り、役所がもっている規制はなくなりません。天下りした人たちは規制がなくならないように見張っている、番犬のような存在でもあるのです。

「あうんの呼吸」と知る権利は相反するものなのです。「あうんの呼吸」はムラ意識を共有している人たちだけにわかる、排他的なコミュニケーションです。

官僚は業界に対し規制という支配権を握っています。この権限を手放したくないからこそ保護に走るのです。

「行政指導」が存在している理由は、自分たちの既得権益を守ることにあります。

日本で許認可権限を一手に握っているのが官僚です。力を持っている人のところには、必ず下心のある人たちが集まります。

「単身赴任」という考え方があります。これは選択の自由を認めません。自分が働くところを自分で選べないのです。なぜこのような発想が幅を利かすのか。それは組織体からすれば、たとえ家庭が崩壊しても組織体が生き残ることが一番重要なことだからです。

---  宮本政於 「お役所の精神分析」 1997.3.10

2021年11月20日土曜日

居ハ心ヲ移ス

  戦後、日本は激しく揺れ、変わってしまったが、これがもしも、日本中どこも戦災にあわず、どこも焼けなかったとしたら、それでも、こんなふうに、すっかり変わってしまっただろうか。

 自分の家も、となりの家も、向かいの家も、町全体が、むかしとおなじで、それを朝から夜まで、くる日もくる日も見て暮らしていたら、気持ちや考え方だけ変えるというほうが無理というものかもしれない。居ハ心ヲ移スという。住んでいるところが変わらなければ、心も移しようがなかろう。

---  花森安治 「花森安治選集2 (水の町 日本紀行)」



2021年11月14日日曜日

鎖国を悪とする背景

よく言われる日本の島国的・鎖国的な発想というのは、江戸時代ではなく、この時代(秀吉の朝鮮・中国・東南アジア諸国一帯のアジア支配という構想)にこそあったのです。またこれは、欧州の植民地拡大の発想と同じ価値観です。さらに、米国のフロンティアの考え方と同じです。秀吉がポルトガルやスペインの実際におこなっていたことを、知らなかったはずはありません。

江戸時代の技術も、近代日本の技術も、秀吉のもくろみが失敗し、アジアの物資を手に入れられないことから始まったのでした。他者のものを奪うことができず、自ら生み出すほか方法がないからこそ、技術開発が興(おこ)ったのです。自らの無能を自覚してこそ、創造力が培(つちか)われたのでした。

江戸幕府は、俘虜(ふりょ)の人々を隠すこともなく、彼らが帰国するもしないも本人の意志にまかせていたのでした。開かれて間もない江戸幕府は、本気で朝鮮との国交回復を望んでいたのです。

日本人武将が強制連行してきた朝鮮の人々の中には、知識人もいれば、陶磁器の職人もいました。約10万個の銅活字と印刷機材をソウルから盗んで来たと言われていますから、印刷職人も連れてきた可能性があります。このように野蛮で不当な手段をとったのですが、結果的に江戸時代の基礎に朝鮮の人々の技術がしっかり根付き、江戸時代をはぐつむ土の役割を果たしたのです。

琉球は1372年から、中国の冊封国(さくほうこく)です。その冊封制度のもと、マラッカ(マレーシア)、シャム(タイ)、パタニ(タイ)、ジャワ(インドネシア)、スマトラ(インドネシア)、パレンバン(インドネシア)、スンタ(インドネシア)、安南(べトナム)、朝鮮、日本に貿易船を派遣し、アジアでも有数の貿易国でした。その豊かな国を、薩摩藩は狙ったのです。これは秀吉が朝鮮に侵略したのと同じ、外国への侵略と植民地化です。

明治維新後の1872年、琉球は琉球藩となりました。さらに1874年、明治政府が廃藩置県をによって県に変更し日本国に組み入れようとしたので、強い抗議が起こりました。1879年、日本は約300名の兵士と160名あまりの警察で琉球に入り、尚泰王(しょうたいおう)に首里城を明け渡させ、ここに沖縄県が成立しました。こうして琉球は独立王国の幕を閉じたのです。

沖縄は琉球国という外国であり、日本はその琉球を植民地化し、やがて米国に差し出したのです。このことは、江戸時代に緊密な関係を築いていた朝鮮を、1910年に植民地支配したことと合わせて考えるべきです。

日本は当時、あまり技術力も無く、銀だけに頼って中国の技術生産品を買っていたのです。そのまま勝ち続けていたら、日本には職人が育つことはなく、近代以降の技術も持つことはできなかったでしょう。しかも銀は完全に枯渇し、貨幣も造れなくなっていたでしょう。つまり、「負け」と思われたときが、新しい仕事を作るチャンスなのです。江戸時代日本は、その機会を手にし、実際に新しい時代を作ったのです。新しい一歩を踏み出すことは、依存から抜け出すことでもあるのです。

江戸時代のいわゆる「鎖国」に終止符を打った「開国」は、産業革命後の市場を求めるアメリカ、ヨーロッパによって迫られて起こりました。しかし江戸時代の始まりは外圧ではなく、むしろ外圧を回避し、従来の拡大主義を収め、自国生産へ転換することでなされました。


教科書で使われている「鎖国」という言葉には、いくつかの問題点があるのです。

 第一に、「開国」を善で「鎖国」を悪とする背景に、無条件の欧米崇拝がひそんでいることです。そこには、江戸時代に深く長い交流があったアジア諸国への蔑視(べっし)や無視が見られます。第二に、拡大、雄飛(ゆうひ)、外へ出る、ということが価値あること、とされています。そこには、縮小、収めること、内へ向かうこと、への軽視が生まれます。その果てに植民地争奪戦に巻き込まれ、欲望を肥大化させ、環境破壊の先頭を走ることになりました。江戸時代の縮小、収(治)めること、内へ向かうことの意味を、もう一度考え直さなくてはなりません。

---  田中優子 「グローバリゼーションの中の江戸」

使い捨て

 使い捨てをしないのは単に金額の問題ではありません。江戸時代の「もの」の感じ方は「同じものがない」ことに由来する、個性への愛着なのです。

着物が世界を巡りながら地上と地中を循環していたように、陶磁器もまた世界を巡りながら、人から人へ受け渡され、最後はふるさとである土に還ります。漆もまた、すべての木の成分でできていますから土に戻ります。食器であってもプラスチックではこうはいきません。

現在の紙は、1ミリか二ミリぐらいのパルプの繊維でできていますが、和紙は10ミリ以上の長い繊維でできています。しかも薬品は添加されていませんので、漉き返しは容易で環境にも問題ありませんでした。そもそも和紙の原料のコウゾやミツマタは一年草で、長いあいだ育てた木材から採るわけではありませんでした。

---  田中優子 「グローバリゼーションの中の江戸」

ゴッホと広重

 広重の『名所江戸百景』の特徴は、描かれているものが見る人の視線の「出発点」であって、そこから人はむしろ描かれていない江戸の空間に、想像力を引っ張ってゆく仕掛けなのだ、とわかります。しかしそういう仕掛けは「額」の存在を前提にしている十九世紀の西洋絵画の視覚では、なかなか理解できなかったと思います。

---  田中優子 「グローバリゼーションの中の江戸」

2021年11月6日土曜日

生まれた時からそういう時代だった

 自己責任論に影響される若い人たちのメンタリティが私にはこう見えます。お金を儲けた者、成功した者の言動に賛同することで自分を一体化させて自己万態感、自己肥大感に浸る。そういう人の特徴は、成功者の失敗には非常に優しいですが、社会的要因つまり自己責任でない原因で敗者になった人間には厳しいこと。勝者にやさしく敗者に厳しくというのは、本当に守るべきものは何なのか、誰なのかを完全に見誤っています。
 若い人が昨今の新自由主義社会の価値観しか知らない世代なので、あるいは仕方のないことなのかもしれません。先ほど述べた排除アートが現れ始めたのは1990年代後半からでした。そうすると今のだいたい20歳後半より下の人は、生まれた時からそういう時代だったのです。

自己啓発やサクセスものビジネスセミナーなどに影響される若者は、大人社会の反映のように私には見えます。若者は、実は社会の鏡なんですよね。年配者や大人以上にフィルターなしに社会の風潮を全身で受け止めてしまっているんですよ。 


----  林克明 『渡辺てる子の放浪記』