2021年11月14日日曜日

鎖国を悪とする背景

よく言われる日本の島国的・鎖国的な発想というのは、江戸時代ではなく、この時代(秀吉の朝鮮・中国・東南アジア諸国一帯のアジア支配という構想)にこそあったのです。またこれは、欧州の植民地拡大の発想と同じ価値観です。さらに、米国のフロンティアの考え方と同じです。秀吉がポルトガルやスペインの実際におこなっていたことを、知らなかったはずはありません。

江戸時代の技術も、近代日本の技術も、秀吉のもくろみが失敗し、アジアの物資を手に入れられないことから始まったのでした。他者のものを奪うことができず、自ら生み出すほか方法がないからこそ、技術開発が興(おこ)ったのです。自らの無能を自覚してこそ、創造力が培(つちか)われたのでした。

江戸幕府は、俘虜(ふりょ)の人々を隠すこともなく、彼らが帰国するもしないも本人の意志にまかせていたのでした。開かれて間もない江戸幕府は、本気で朝鮮との国交回復を望んでいたのです。

日本人武将が強制連行してきた朝鮮の人々の中には、知識人もいれば、陶磁器の職人もいました。約10万個の銅活字と印刷機材をソウルから盗んで来たと言われていますから、印刷職人も連れてきた可能性があります。このように野蛮で不当な手段をとったのですが、結果的に江戸時代の基礎に朝鮮の人々の技術がしっかり根付き、江戸時代をはぐつむ土の役割を果たしたのです。

琉球は1372年から、中国の冊封国(さくほうこく)です。その冊封制度のもと、マラッカ(マレーシア)、シャム(タイ)、パタニ(タイ)、ジャワ(インドネシア)、スマトラ(インドネシア)、パレンバン(インドネシア)、スンタ(インドネシア)、安南(べトナム)、朝鮮、日本に貿易船を派遣し、アジアでも有数の貿易国でした。その豊かな国を、薩摩藩は狙ったのです。これは秀吉が朝鮮に侵略したのと同じ、外国への侵略と植民地化です。

明治維新後の1872年、琉球は琉球藩となりました。さらに1874年、明治政府が廃藩置県をによって県に変更し日本国に組み入れようとしたので、強い抗議が起こりました。1879年、日本は約300名の兵士と160名あまりの警察で琉球に入り、尚泰王(しょうたいおう)に首里城を明け渡させ、ここに沖縄県が成立しました。こうして琉球は独立王国の幕を閉じたのです。

沖縄は琉球国という外国であり、日本はその琉球を植民地化し、やがて米国に差し出したのです。このことは、江戸時代に緊密な関係を築いていた朝鮮を、1910年に植民地支配したことと合わせて考えるべきです。

日本は当時、あまり技術力も無く、銀だけに頼って中国の技術生産品を買っていたのです。そのまま勝ち続けていたら、日本には職人が育つことはなく、近代以降の技術も持つことはできなかったでしょう。しかも銀は完全に枯渇し、貨幣も造れなくなっていたでしょう。つまり、「負け」と思われたときが、新しい仕事を作るチャンスなのです。江戸時代日本は、その機会を手にし、実際に新しい時代を作ったのです。新しい一歩を踏み出すことは、依存から抜け出すことでもあるのです。

江戸時代のいわゆる「鎖国」に終止符を打った「開国」は、産業革命後の市場を求めるアメリカ、ヨーロッパによって迫られて起こりました。しかし江戸時代の始まりは外圧ではなく、むしろ外圧を回避し、従来の拡大主義を収め、自国生産へ転換することでなされました。


教科書で使われている「鎖国」という言葉には、いくつかの問題点があるのです。

 第一に、「開国」を善で「鎖国」を悪とする背景に、無条件の欧米崇拝がひそんでいることです。そこには、江戸時代に深く長い交流があったアジア諸国への蔑視(べっし)や無視が見られます。第二に、拡大、雄飛(ゆうひ)、外へ出る、ということが価値あること、とされています。そこには、縮小、収めること、内へ向かうこと、への軽視が生まれます。その果てに植民地争奪戦に巻き込まれ、欲望を肥大化させ、環境破壊の先頭を走ることになりました。江戸時代の縮小、収(治)めること、内へ向かうことの意味を、もう一度考え直さなくてはなりません。

---  田中優子 「グローバリゼーションの中の江戸」

0 件のコメント:

コメントを投稿