2020年12月28日月曜日

社会への適応

 たとえば大学受験では、多くの場合、受験勉強で得た知識はその後の大学生活や社会生活で役に立たない。しかし「どの大学に入るかで人生が決まる」と認識されるため、受験生はそれを了解していながら、多くのエネルギーを受験勉強に投入する。大学に入学した若者がその後情熱を傾けるのは、次なるエントリー競争としての「就職活動」である。


企業の人材選好は、年齢・性別という属性と「現役の学生である」という学校への所属に基づいて規定されていた。個々の若者が仕事に役立つ知識を持っているかは問われず、「○○校出身」というタグを付けた「白紙」状態の若年男性こそが求められた。


「メンバーシップ主義」は結果的に、子ども・若者にとっての「社会」なるものを、学校と企業の複合体に狭く限定していったといえる。普遍的な技能・資格基準が存在しない以上、「社会のなかの自己の位置」は、所属する組織を通じてしか、明かすことができない。そして組織への所属は、高い同質性を持つ中間集団における競争と協調への参入を通じてなされる。そこでは、日常的に身を置く具体的な場である「クラス」や「職場」への順応こそが、「社会への適応」と見なされていく。


欧米では、学校からのドロップアウトは主に低学歴の貧しい子ども・若者に見られる一般的な逸脱(いつだつ)形態であり、他方、フリースクールやホームエディションといったオルタナティブ教育は、独自の価値観に基づいて子どもを教育したい比較的階層の高い親たちが選ぶ「もうひとつの学校」である。この二つは別個の事態であり、「社会の問い直し」として土台を共有することは直接的には起こらない。


「平成」以降、キャリアに関する予測可能性は失われ、不確実性が増大するなか、多くの子ども・若者がスムーズな移行から漏れ落ちようになった。にもかかわらず、いまだに新卒学卒採用は「真っ当な就職先」を得るためのほとんど唯一のルートであり、それ以外のルートは「いばらの道」であり、実質的に個々の努力、才能、ネットワーク、運などに任されている。

ーーー 貴戸理恵 「平成史(小熊英二) 教育」から

先進国

 日本は、もはや「原料を輸入して加工貿易をするアジアの工業国」というよりも、「アジアで作られた工業製品を輸入し消費する先進国」に変化しつつある。その現状認識を欠いた「輸出産業重視・貿易立国」という日本像にもとづいた政策は、一部産業への政策的優遇としてしか機能しない恐れがあった。一部の経済学者は、金融緩和で国内需要が伸びれば景気は回復すると説くが、国内需要が伸びても国内生産が伸びずに需要が海外製品にむかえば、むしろ貿易赤字を拡大することになる。

ーーー 小熊英二 「平成史」から

ストロー効果

 自給自足でやっていける地域からは、移民は出てこない。それが出てくるのは、現地の「生活基盤の喪失(uprooting)」がおきたあとである。つまり、発展途上地域の近代化が進み、教育が普及して、第一次産業ではやっていけない状況が発生した方が、移民は流出しやすくなる。つまり、工業化したほうが労働力移動が発生しやすい。という逆説が生まれる。


公共事業で整備された交通網は、人口や産業の都市への「吸い上げ」をもたらす「ストロー効果」を生んだ。
(略)
土建事業が行なわれれば行われるほど、都市への移動が進む。

ーーー 小熊英二 「平成史」から

工業化時代の想像力

 いまなら、携帯電話で知らせるところだ。ここに描かれている未来像は、移動技術が大幅に進歩しているのに、情報通信技術がまったく変わっていない世界である。『未来少年コナン』に描かれている「インダストリア」では、巨大爆撃機、ロボット、原子力をエネルギー源とする金属製の巨大ビルティングなどがあり、宇宙服のようなユニホームに身を固めた人びとがいる。しかし情報通信技術のほうは、マイクを握って話す卓上式の大型無線装置なのだ。

ーーー 小熊英二 「平成史」から


2020年12月5日土曜日

適応

 ある種の適応が、いかに短い繁栄とその後の長い困難をもたらすか。
感染症と人類の関係についても、同じことが言えるのではないかと思う。
病原体の根絶は、もしかすると、行きすぎた「適応」といえなくはないだろうか。感染症の根絶は、過去に、感染症に抵抗性を与えた遺伝子を、淘汰に対し中立化する。長期的に見れば、人類に与える影響は無視できないものになる可能性がある。


感染症のない社会を作ろうとする努力は、努力すればするほど、破滅的な悲劇の幕開けを準備することになるのかもしれない。大惨事を保全しないためには、「共生」の考えが必要になる。重要なことは、いつの時点においても、達成された適応は、決して「心地よいとはいえない」妥協の産物で、どんな適応も完全で最終的なものでありえないということを理解することだろう。心地よい適応は、次の悲劇の始まりに過ぎないのだから。

---  山本太郎 「感染症と文明-共生への道」から 2011/06/21発行