意見を恐れる日本人がいる。無関心な人たちに気づかれることを恐れている。「民主主義」なんてかっこいいことを言っているが、「無関心主義」のおかげで成り立っている国だ。
無関心とは「犠牲」を見ないことだ。誰かを下敷きにして、僕らはその上に座っているという現実に目を向けないから、僕は漫才を使い、そこに目を向けさせる。
そもそも普段から政治や社会のことを話し、議論して、その意思表示として選挙に行くのに、普段からその話をタブーにして議論もせず、選挙なんかに行って、誰を選ぶというんだろう。ただの大人の証明くらいの感じで行っているだけだろうと思っている。
大人なら選挙に関心を持て、投票に行け、と責任を求めるなら、同じように「在日朝鮮人に関心を持て、沖縄の辺野古に関心を持て、原発に関心を持て、僕たちの社会だぞ」と言える。
お前が誰かを風景にするということは、お前を誰かに風景にされるということだ。風景にしていいということは、自分の悲劇も風景にされるということになる。
風景にしていいというルールは、すべてが自己責任になる。「知らんがな、お前のことだろう」は、お前が困っているときも「知らんがな、お前のことだろう」になる。
--- 村本大輔 「おれは無関心なあなたを傷つけたい」
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