人が個として民主主義社会に生きていくのであれば、公の発言から何かの運動に至るまで、その矛盾の幾重もの襞(ひだ)のあいだから言葉と行動を選び、躊躇しながら力強い言葉にしなけらばならばない。何らかの「恥」があって当然なのである。だから異なる考えに耳を傾け、異質な者を受け容れ、しかし「自分」をやめるわけにはいかないように、行動と発言をやめることはない。
その反対に自分を疑うことなしにひたすら正しいと思い込み、悪いのは自分以外の何者かであると信じ、それに対する攻撃の手をゆるめないもの、それは運動ではなく「暴力」と呼ぶべきだろう。様々な理屈をひねり出したとて、それは思想ではなく信心である。
--- 田中優子「そろそろ社会運動の話をしよう」から
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