2016年4月1日金曜日

差別意識や偏見の自覚

たんに差別的なことばを使用したか否かではなく、その文脈に、”侮辱の意志”があるかどうか、つまり、表現の差別性を、問題にしているのであった。

差別をかくすために、差別語を禁句にするのではなく、差別をなくすために、あえて差別語を使用すべきなのである。差別語をもって差別の実態を逆照射し、差別を告発することができるのである。

重要なことは、差別意識や偏見をもっているか否かではなく、(つまり、差別意識や偏見から逃れられる人はいないという前提で)差別意識や偏見をもたされていることを自覚しているか否かにある。

通院歴・病歴には、内科・歯科・眼科・耳鼻咽喉科などがあるはずなのに、なぜ取り立てて精神科のみを取り上げて記事化するのか?
一般に差別表現か否かを、話者の主観的な意図にもとづいて、つまり悪意をもって発言したかどうかを基準をおく傾向がありますが、重要なことは、表現主体(話者)の差別的意図の有無の問題ではなく、表現内容の差別性についての客観的評価(社会的文脈)で判断すべき問題ということです。

なぜ部落解放同盟はこれほどまでに社会的影響力を失い、組織存亡の危機に瀕しているのか?ということだった。
答えはハッキリしている。弱体化の原因は、抗議しやすい企業、宗教、メディアに対してのみ糾弾を行い(今やそれすら充分におこなわれているとは言い難い)、本来の対象である権力に対する糾弾を回避するようになったからである。

被差別部落出身者が、みずからの出目に胸を張り、今なおふるさとを隠さざるを得ない、全国に散在する兄弟姉妹の、無言の声を背負って、社会の差別、国家権力の差別と闘いきる-それが糾弾のエネルギーの源泉であり、部落解放運動である。

--- 小林健治 「部落解放同盟「糾弾」史」 から

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